アメリカに来て数年してから、私は大学に復帰する機会に恵まれた。日本の某大学で中途になっていた単位をトランスファーし、コミュニティーカレッジを経てシカゴのDePaul (ドゥポール)大学を卒業した。30台半ばのことであり、二十歳前後の若者達の間で浮いてしまうのでは?との気後れもあったが、社会人の大学通いはアメリカでは珍しくない。40人程度のクラスなら2、3人は見かけるのが普通だ。元々日本のように歳を気にかける風習もなく、トランスファーや休学に対しても柔軟で、私が特異な存在となることはなかった。
とは言え、二人の子供を抱えた母親が、子育てと学業を両立させるのは容易ではない。特にうちの子供は、二人ともなぜか病気がち。現在13歳の長男は、神経科の病気を抱えている上、それとは別の原因不明のアレルギーらしき症状で寝込むことがしょっちゅうだった。当時彼が通っていた小学校からは、「ちゃんとした病名が無いのではサボリと同じ。同じ様な理由で、地域の教育委員会(school district)に訴えられている家族もいる」とのこと。さすがは訴訟大国のアメリカ!「子供の病気」という実質的問題に加えて、親の責任を追及する厳しい目から身を守る必要がある。治療のしようが無いとは知りながら、症状が出る度医師のオフィスに通い、体調が悪いことだけでも証明する書類が必要だった。8歳の娘も免疫力が弱く、ひっきり無しにアレルギーや感染症を患う。こんな時頼れる親戚や家族は誰もおらず、親しい友人は皆勤め人。熱を出してるような時、預かってくれる人間はいない。お陰で私の大学の授業は、遅刻や欠席がしょっちゅうだった。
このような状況で、宿題の提出が間に合わなかったり、試験の日に欠席するような事態が重なった。不真面目と見られても困るので、教授に説明に行く必要がある。出来たら宿題の延期や再試験の許可ももらいたい。個人の事情に大学は対応できない、と言われるのか。今度だけはと渋々承知してくれるのか?遠慮がちに話してみると、教授の反応は意外や意外。「子供の病気」を正当な理由とサラリと認めてくれた。特に同情する風でもなく、アッサリしたものだ。哲学の講師にいたっては、「君は子供の面倒を見るべきであり、宿題は直ってから取り掛かればいい」とのこと。これが優しさかと思うと、それだけでもない。自分の宿題はいい加減に済ませるべきものではなく、じっくり時間を取って対処せよという隠れた厳しさがあった。
いずれにしろこういった柔軟な姿勢は、その後に続く何十人という講師にほぼ共通していた。
彼らの態度をよそに、何度も何度も恩赦を受けに行く私の心境は「罪悪感」であった。「病気がちの子供がいながら大学なんか通って、特別扱いを受けるなんて….。」しかし教授達の対応には、迷惑な様子や恩に着せる素振りは微塵もない。事情を聞くと、即決で絶対的敬意を示してくる。その様子は、言ってみれば、まるで水戸の黄門様に印籠をかざされたかのようなのである。
日本人の私が「罪悪感」を持つ事態のどこに、彼らは黄門様の印籠を見出しているのか?
まず第一に、「子供の病気」を不可抗力と思っているという事実がある。日本では、親が病気の原因にまで責任があると思われがちで、子供が病気をすると対外的に謝るのが普通である。今のアメリカ人は親に同情する傾向にある。たとえ親の不注意で防止可能な怪我や病気にかかっても、親を責めることはしない。人間(親)に「完璧」を求めないからだ。
それ以上にここで重要なのは、「病気がちな子を持つ母親である」という状況に関わらず、私には学ぶ権利があると考えていることだ。人間は皆同等の尊厳を持つ存在であり、その尊厳が様々な普遍的権利として表れる。他人が権利を主張したため自分が調整を強いられるような場合、アメリカ人はそれを「迷惑」とは考えない。「権利の保護」に賛成な以上、調整が自分の積極的選択なのである。
アメリカ人は2億9千万人全員が「権利」という印籠を隠し持った黄門様なのである。
この定理にハタと気づいてから、日本と違う様々な習慣を理解できるようになった。
アメリカでは、買い物に行ったお店で店員同士が話しをして、客が待たされるようなことがよくある。「お客様は神様」という日本的感覚では、イライラしてしょうがない。しかし相手が商人(あきんど)に身を隠した黄門様となれば、心理的制御が利くもの。お待ち申し上げて当然である。車椅子の人間が狭いエレベーターに乗り込もうとする時、アメリカでは譲るのが常識。黒皮に身を包んだ、怖い顔のバイカーだって例外ではない。これも相手が黄門様と知ってのことなら、納得が行くもの。ストローラーに子供を乗せたお母さんが建物に入ろうとしていれば、それはダブル黄門様なのであり、戸を開けてお通し申し上げるのが筋というもの。
目上も目下もなく、人は皆黄門様である。そしてそれは親しい間でも変わらない。こう考えると、アメリカ人との距離の取り方がうまく行くようであり、なかなか重宝な定理として気に入っている。私が大学を無事卒業できたことは、一重に大学側の理解のお陰で、感謝の気持ちでいっぱいだ。こんな時日本人の癖で、「ご迷惑を掛けしました」と言いたくなるが、それでは自分という人間の権利を否定することになりかねない。「権利の保護」を支持するなら、謝っては理に適わないだろう。
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