ぶんぶんぶん。
私の脳裏にこだまするこの雑音に気付いたのは、アメリカに住んでしばらくしてからのことである。
外国に長年住めば、自然とその国の言葉が話せるようになり、その国の風習にも馴染むと思われがちだ。しかしこれは大きな誤解である。小さな子供でもなければ、意識的・積極的努力無しには他国には馴染めない。私がアメリカに来たのは32歳になってからのことで、何一つ自然に頭に入ることは無かった。英語の基礎はあったが、TPOを踏まえた適切な会話が判らない。周りを見てると、日本よりはずっと自由で、誰と何を話してもいいようだが、簡単にマネは出来ない。
来て間もない頃は、買い物に行くのにもちょっとした覚悟が必要だった。客や店員が何かと話掛けてくるからだ。本屋さんで、探している本の場所を聞こうと店員に声を掛けると、
「店内はクーラーが効き過ぎて、寒い寒い。私は真夏でも、この通りセーターを着て仕事してるの」
などと唐突かつ親しげに話し出す。用件はそっちのけのこのような会話に、なんで私にそんな話をすのか?なんと答えるべきか?と戸惑った。私のこの戸惑いは、どうも儒教の影響だったようだ。
孔子の教えに始まった儒教は、日本人が気付かないほど日本に浸透している。外国人が日本を理解しするには、神道や仏教以上に重要だ。儒教的思考回路には、自分と他人の「分」を見極め、それに応じて「礼」を示そうという無意識のプロセスがある。それが上司と部下であったり、店員と客であったり、先生と生徒であったり。言葉遣いからして尊敬語・謙譲語等と使い分ける必要があり、大げさに言えば「分」を見定めることなくして、会話は成立しない。
前述の場面で私が戸惑ったのは、自分は「客」で相手は「店員」という見方をしていたからだ。なじみ客でもなければ、店員と客の会話は品物や店のことに限られるのが日本の常識。その枠を飛び越えた発言に、対処する用意が私には無かった。「分・分・分」と無意識の拘束を受けていたのだ。
「分」をわきまえ「礼」をつくすというのが孔子の教えだが、彼の教えのもっと根本にあったのは、実は「仁」である。誰に対しても慈しみの心を持つ人間愛のことだ。そしてその表現方法を、分に応じて形式化したものが礼だった。孔子の死後2500年を経た今の日本で、「礼」について語る人が居ても、「仁」は影が薄い。
人間には、自ら形を与えた物や状況に逆にコントロールされるという悲しい習性がある。「のんびりしたい」と旅行に出掛ければ、日程に振り回されてヘトヘトになる。綺麗な洋服を買っては、しわをつけないように、よごさないようにと行動に規制を受ける。子育てをする親達は、誰しも「幸せになってほしい」という出発点から始まるが、それがいつの間にか、「勉強させなくちゃ」「大学に行かせなくちゃ」に取って代わり、不幸せな子供の顔はもはや目に入らない。
なんのケアも無いまま風化して行く儒教にも、この現象が見られる。形式としての「礼」が残り、「仁」は忘れ去られた。更に今の日本からは、「礼」さえも消え去ろうとしている。それが形にこだわらない、「仁」の表現という意識的改革なら願ったりだが、「仁」の決定的否定という形で進行してはいないだろうか?
そもそも「分」という概念は、ともすれば差別に繋がるもので、アメリカが理想とする「平等」とは対立してはいないか。もちろんアメリカでも、学校では先生に、職場では上司にそれなりの権限が与えられている。しかしそれは学校や組織の機能を果たすという目的に沿うもので、先生や上司が「偉い人間」だからでは決してない。確かに現実には、位の高い人間が必要以上に幅を利かすことも大いにあるが、それは飽くまでも「好ましくない現実」なのであり、理想ではない。
では「分」に拘らないアメリカ人は、どう人と対応するのか?
前述のような本屋の場面では、
「ホントに寒いわねー」と相槌を打つ程度でもいいし、「あら、クーラーがあるだけいいじゃないの。私の家なんか、先週クーラーがずーっと故障だったのよ。猫は地下で寝れるからいいけど、私達人間は汗ダクダク」(私の横にいたお客さんの、実際の対応)などと、日本では親しい人にしかしないような、さほど意味はないけど関連のある内容を、語ってもいいらしい。分を表現するための会話ではなく、会話のための会話でいいのだ。
私がアメリカ人と気軽に話せるようになるには、生まれてこの方、30数年慣れ親しんだ思考回路を変える必要があった。相手を目上と思ってぎこちなくなったり、目下と思って高飛車になったり。自然のリアクションをリセットする必要があった。ようやく解放されたのは、つい最近のことだ。一度アメリカ式に慣れてしまうと、今度は日本式が億劫になる。たまに日本人と話すと、どうも失礼をしているようなことがあるらしい。かと言って身構えてみると、度を越していたり…。
日本からもアメリカからもはみ出してしまうのか、どちらでも通用する国際人になるのか、海外生活者の頭の痛いところだ。