2月1日のスーパーボールのハーフタイム・ショーで、ジャネット・ジャクソンの右胸が露出した事件は、アメリカで大きな波紋を呼んでいる。(日本でも話題となったらしいので、詳細は省略。)事件後数日は、どのニュースもその話題で持ちきりだった。本人の謝罪、デュエットしたジャスティン・ティンバーレークの謝罪、NFLの怒りの発言、一般人からの苦情の山、それに続く訴訟と蜂の巣をつついた騒ぎだ。
しかし女性の胸がなぜ卑猥なのか?子供が胸を見て、なぜいけないのか?
当のジャクソン本人も、コスチュームの機能不全と説明しながら、顔色を変えての平謝りだ。それでも鳴り止まぬゴウゴウの非難。確かに過激な露出が非道徳的であるという常識があり、それを犯したことを問題視するのは理解できる。しかし、この問題の前提になっているのは、「女性の胸は性の対象物」という姿勢であり、「性=悪」というキリスト教的抑圧である。そこらへんのメンタリティーが、どうもしっくりこない。堅苦しいというか、不自然というか…。
ハリウッド映画やポップ歌手、若者向けTVドラマから受けるアメリカの印象は、随分リベラルで男女交際等自由自在のようである。しかしそれらのクリエーターは、「表現の自由」を盾にトレンドを打ち出しているごく少数の人間であり、それに反目する保守派が実は根強い。知り合いを見ても、高校時代の彼氏と10年付き合った末結婚したとか、大学で知り合った始めての恋人と結婚した等という場合が多く、一般のアメリカ人は案外慎み深い。
保守派の見解は、キリスト教から来るものだ。アダムとイブが楽園から追放されたのは、彼らが性に目覚めたからで、性=罪であるという原罪意識だ。そればかりか、メイフラワーに乗ってアメリカに移民して来た当初の人間は、半数が清教徒と呼ばれる人達で、キリスト教の中でもことさら性に悲観的だ。
この世に生を受けた者なら、誰しも性の恩恵を受けているのに、それを忌み嫌うのは、不健全な矛盾ではないか。確かに性から発する問題は数多く、要注意なのは確かだが、「臭い物に蓋」式扱いでは、子供に教育もできない。
上の子供が小学校5年生になった時、人間のreproduction (繁殖)に関するビデオを生徒に見せるという知らせが学校から届いた。わざわざ手紙が届き、子供達が自然の過程を知るのがいかに大切かという物々しい説明があったので、私はてっきり先進的性教育と思い込んだ。さすがアメリカ!建設的アプローチには大賛成!と詳しい内容を問い合わせてみると…ビデオは受精後からの説明であり、単に子供が生まれるまでの過程でしかない。担当の先生は気を使い使い、セックスに関するようなものは決して無いので、安心するように、と言う。???つまり性教育ビデオというのは私の勘違いで、どちらかというと生物のビデオかもしれない。それでも性の問題がからむので、前もって親に連絡をし、反応を伺っているようだった。
しかしビデオを見せれば、好奇心の強い子供達なら、「赤ちゃんはどこから来るの?」という質問に当然なるだろう。そしたら先生はなんて答えるのか?まさかコウノトリ説でごまかすつもりでは…。
アメリカがキリスト教なら、日本には神道がある。神道は性をどう扱っているのか?イザナギとイザナミの国生みの下りには、実にあっけらかんとした、ストレートな性の描写があり、それは二人の次の会話に現れる。
イザナギ:あなたの体はどんな風に出来てきていますか?
イザナミ:私の体はかなり整ってますが、一部欠けているところがあります。
イザナギ:私の体もかなり整っているが、一部余っているところがある。お前の体の欠けている部分に、私の体の余った部分を合わせ、国土を生み出すというのはどうだろう?
イザナミ:いいでしょう。
この会話に見られるのは、キリスト教の影響を受けない著者の、日本本来の性に対する姿勢ではないだろうか?
一昔前大ヒットした、ケビン・コスナー監督主演の映画「ダンス・ウイズ・ウルブス」を覚えている方は多いと思う。アメリカ開拓時代の白人とネイティブ・アメリカンであるスー族の集落の話だ。映画の中で、コスナー演じるダンバー中尉が、「蹴る鳥」と呼ばれるスー族の男のテントに泊まるシーンがある。夜中に物音に気づいてダンバーが目を覚ますと、蹴る鳥とその妻が、なんと夫婦の営みの真っ最中。ドキリとするダンバーに、蹴る鳥は軽く挨拶をして事に戻る。その彼の姿には、罪悪感も無ければ羞恥心もない。当たり前のことを、当たり前にしているという風だ。
果たしてこれは、悪名高きハリウッド映画のでっち上げか?実はそうではない。スー族を演じている役者の中には、実際にスー族の文化保存のために活動している人間が2、3人いた。映画制作後の彼らの意見は、「この映画には、スー族の日常生活がかなり正確に再現されている」とのことだった。
スー族の風習に見られるのも、キリスト教に汚染される前の健全な性ではないだろうか?
抑圧すればするほど、性的体験は希少価値が高まるのであり、隠せば隠すほど女性の胸も見た時の刺激が高まる。日常、乳房を露にしているアフリカの原住民は、乳房に興奮する人間を見て、異常と思うのではないだろうか?彼らが未開で、ありのままの人間の姿を直視できない私達が進んでいるのだろうか?