kitombo.com | デウィとの五〇〇日 | 2004年6月7日 
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デウィとの五〇〇日
「『デウィとの五〇〇日』(7)」

大地舜
6月7日

真昼の脱走

 スラバヤ第一の繁華街をテュンジュガン通りという。南北に走るこの通りの両側には、デパート、本屋、メガネ屋、スポーツ用品店などが並び、世界中の品物を売っている。
 ティの働いているお店は、このテュンジュガン通りの横道の、そのまた裏通りにあった。お店といっても小さな所で、ガラスのショーケースに雑貨品を並べ、タバコや薬を売っている。ティの仕事は”ジャム”と呼ばれる薬の調合と販売だった。
 ”ジャム”はインドネシア独特の薬だと思っていたが、ティによると、数百年前に中国から来たものだという。そして、使っている薬草の種類も多く、調合方法は秘密だそうだ。
「ジャムは何にでも効くのよ。胃腸薬、痩せ薬、精力剤、産後の肥立ちをよくする薬など、いろいろあるしね」
 ティは得意気に言う。
 夕方になるとティは屋台を押して”ジャム”を売りに行く。ウイスキーの空きビンに”ジャム”を詰め、屋台の上に並べて、ゴロゴロと押して行く。テュンジュガン通りで店を開くのは違法なので、脇道の木陰に屋台を停め客を待つ。
 陽の沈む頃になるとこの道には、どこからともなく屋台が現れ、道の片側を埋めてしまう。そしてランプに灯が入ると、ますます賑やいだ雰囲気になる。豆腐揚げ屋、焼き鳥屋など、食べ物の屋台が多い。
 一年中暑いスラバヤは日中蒸し暑く、午後は昼寝をする人も多い。そのかわり日も沈んで夜になると、人々は動き出す。ティも毎晩九時過ぎまでお店を出している。
 イメルダの家から逃げ出したわたしは、ティと兄の所を行ったり来たりしながら仕事を探していた。
 わたしは裁縫が好きだった。そこで大きな布屋さんを当たってみることにした。
 テュンジュガン通りの近くにインド人の大きなお店があった。窓の外から針子の仕事ぶりを見ていたら、お店の人が出てきた。
「針子をやったことがあるのかい?」
 目の鋭い、まゆ毛の太いインド人の男だった。
「いいえ。家でやった程度です・・・」
「ミシンを使ったことは?」
「ありません」
「じゃーちょっと中に入って試してごらん。上手になりそうだったら雇ってあげよう」
 ミシンの扱い方は知らなかったが、手で縫う分には自信があった。
「才能があるようだし、見習いとして雇ってあげよう。今日から来れるかい?」
「はい。あの・・住む所は?」
「あー、裏にあるよ。荷物を持っておいで」

 このお店で三ヶ月ほど働き、すっかりミシン縫いも上手になった。そんなある日、例の鋭い目つきのインド人がやって来た。
「デウィ、お前はもう一人前の腕になったから、うちと正式に契約しよう。期間は三年、月給は三万ルピアだすよ」
「三万ルピアも!」
 給料が一挙に三倍になるので、心臓がドキドキした。
「あのー、休みなんかも貰えるわけですね?」
 インド人は太い眉を上下してうなずき、契約書を差し出した。わたしは急いで契約書にサインした。
「じゃ、今すぐ荷物をまとめなさい。今日から熟練工ばかり集まっている工場で働いてもらうから」

 その日連れていかれたのは、スラバヤ市のはずれの倉庫が沢山ある所だった。工場のそばにはゆったりとした流れの河があり、近くには有名なビール工場があるはずだった。
 工場は高い塀で囲まれていた。正面のガードをくぐるとすぐ工場の入り口がある。塀と建物の間の芝生には大きな真っ黒な犬がおり、わたしを見ると突進してきて金網ごしに「ウオー」と牙をむいた。
 工場は倉庫を改造したものらしく、天井が高く窓がない。入り口の右側には番人のための小さな部屋があり、左側は布地置き場となっていた。中央では二〇人ぐらいの針子が仕事をしている。奥の方は住居になっているようだった。
 針子たちはわたしが入っていっても誰も顔をあげない。インドサリーをまとった太った女性が手招きをし、無言で空いているイスに座れと言う。
 テーブルもミシンも立派だった。
 わたしはウキウキした気分だった。なにしろ三倍もお給料がもらえるんだもん。でも、何か職場の雰囲気は湿っぽかった。なんでかしら?みんな高給取りのはずなのに・・・。

 湿っぽい雰囲気の理由は夜になって分かった。
 同室の女の子はイボンヌという、二一歳の色の白い、背の高い子だった。オランダ人の血も入っていそうだ。かわいい美女だ。
「デウィ、契約書は読んだの?」
「ほとんど読んでないけど、でも期間は三年で給料は三万ルピアよ」
 イボンヌは深いため息をついた。
「あなたも騙されたのね。期間三年なんてウソよ。雇い主が必要な間居ることになっているわ。それに休みもないし、一生この倉庫から出られないのよ」
「ウソー?」
 自分の耳を疑った。何の話か分からなかった。
「何を言ってるの?どういう事?」
「そうねー、多分仕事が上手になると、すぐ別の店に移ったり自分で仕事を始める人が多いでしょ。だから、それを予防してるんでしょうね」
「でも休みはくれるといったわ」
「本当に?はっきりそう言ったの?」
「イヤ、ただ聞いたとき、うなずいていた」
「それじゃー駄目ね。なにしろ契約書がすべてなのよ。この世の中は」
「契約書が?」
「そうよ、自分のサインした契約書をよく読んでみたら?わたしたちはみんなここで一生働く他ないのよ」
 契約書は三ページあり、ビッシリとタイプしてある。月給のところは手書きで三万ルピアとあり、よく目立ち、わたしもサインする前に見た。でも、他の所は読む必要を感じず、すぐサインしてしまったのだ。そして、契約書の内容はイボンヌの言う通りだった。わたしは一生ここで奴隷のように働くことに同意していたのだ。
「この契約書を破ったらどうかしら?」
「駄目よ。それはコピーじゃない。オリジナルを手に入れなきゃ」
「逃げた人はいないの?」
「逃げようとして犬にかみ殺された人はいるけど・・・。それと病気で死んだ人もいるわ。でも逃げた人はいないわね。わたしは半年ここに居るけど、チャンスは無かったわ」
「本当に・・・。でもわたしは必ずここを出るわ」

(つづく)

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