夜の特訓
翌朝は四時半に起き、マンディ(水浴)を済ませ、洗濯を始めた。外はまだ暗く涼しい。エニーは台所に立って朝食を作っている。五時になったら目覚まし時計が鳴り、サリーさんとテイアナさんが起きて来て、寝ぼけまなこをこすりこすり、マンディルームに入っていった。二人は朝食をさっさと済ませ、六時にはアイルランガ大学に出かけていった。
六時一五分になったらご主人様と奥様が起きてきた。マンディはせず、顔だけ洗うと食卓についた。朝食はサリーさんと同じインドネシア料理だ。
七時近くになると運転手がやって来て、車をガレージの外に出す。ご主人様が出発したのは七時を過ぎてからだ。
今朝はしっかりとご主人様の観察をした。サングラスに立派な口ヒゲがよく似合い、背も高い。
わたしは洗濯物を干し終わり、客間の床掃除を始めた。客間には奥様がいた。マホガニーの事務デスクの上に本を広げ、書き物をしている。
わたしは掃除をしながら、チラッと本を見てみた。インドネシア語と外国語で書かれた本だ。
「デウィ、インドネシア語は難しいわねー、頭がいたいわ」
「・・・・」
一瞬、耳を疑った。奥様のインドネシア語にはなまりが無く、自然だった。
「奥様はお上手ですよ。わたしと変わりません」
「あら、とんでもない。まだ分からない言葉がたくさんあるのよ。単語は覚えてもすぐ忘れてしまうし・・・」
「奥様はスラバヤに何年お住みですか?」
「あら、わたしは今年の五月に日本から来たばかりよ。だから今月で三ヶ月ね」
「えー、本当ですか?そんな・・・信じられません」
わたしは奥様の顔をもう一度見直した。丸顔でごく普通の人に見える。ジャワの影絵の物語の中に、ロロ・イルンという聡明な女性が出てくる。でも奥様とはイメージが合わない。
「奥様はこちらに来る前からインドネシア語習っていらしたんですね?」
「いいえ、五月に来た時は一言もしゃべれなかったのよ。だから毎日この本を片手に会話してたのよ。あの頃は大変だったわ。メイドに用事を頼みたくても、何と言っていいのか分からないし、だいたいお風呂に入るのがマンディだという事も知らなくて・・・」
「本当ですか?」
奥様はニコニコと無邪気そうだ。うそをついているとも思えない。わたしは客間の掃除を終えて台所に戻り、エニーに聞いてみた。
「ねー、エニー、奥様は本当にインドネシアに来て三ヶ月しかたってないの?うそでしょ?三ヶ月であんなにしゃべれるわけないじゃない」
「でも本当みたいよ。五月に来た頃は一言もしゃべれなかったって、隣のリーが言ってたもの。でもね、秘密があるの。今晩になれば分かるわよ」
昼になった。
「エニー、デウィ、ちょっと来て!」
「ハーイ」
「肉ダンゴのスープ、三皿買ってきて」
「ハーイ」
二人で慌てて台所に戻り、スープ皿を三つかかえ、道路に飛び出した。
「スープ屋さーん!」
屋台のスープ屋さんは笛をピーと鳴らし、去って行くところだった。
熱いスープを両手に持って客間に戻った。
「一皿だけ置いていって、あとはあなたたちのよ」
「テレマカシバニャック(ありがとうございます)」
二人でお皿を台所に運び、そこで食べた。わたしは奥様のやることが信じられなかった。給料から差っ引かれるのかしら?
「エニー、これはどういうこと?」
「何が?」
「だって、お金はどうするの?」
「いいのよ。これは奥様がおごってくれたんだから」
「エー!」
「よくあることなのよ。お留守番してると、必ずお土産買ってきてくれるし、流しの屋台から買う時は、いつもわたしの分も買ってくれたわ」
「ほんと・・・?」
この家はどうなっているんだろう。こんな家主とメイドの関係なんて聞いた事がない。
午後、昼寝をしていたら、サリーさんテイアナさんが帰宅した。二人は奥様と一緒に客間の赤いソファに座り、何か熱心に話している。
わたしは冷たい紅茶を入れて、三人のところに持って行き、そのまま大理石の床に座り、話しを聞いた。
「ヨシエ、わたしたちの同級生が行方不明なのよ。駆け落ちしたみたい。親が心配して家に電話をかけてきたの。なんでもわたしの家に来ると言って家を出たままなんですって。ねーヨシエ、どうしよう?もしもこの家に来たらかくまってくれる?」
「もちろんするわよ。でもなんでまた駆け落ちなんて・・・」
「そりゃー、もちろん親が結婚ゆるさないからよ。女の子はアスリ(純粋の中国人)だし、男の子はジャワ人なの。そのうえ、女の子は大金持ちのお嬢さん。男の子はその家のドライバーなの」
「エー、二人が恋いに落ちたの?」
「イヤ、初めは男の子が惚れて、親の所に行って”お嬢さんと結婚させてくれ。駄目だと言うなら、皆殺しにして俺も死ぬ!”と、ナイフを片手に迫ったの」
「すごいわね・・・」
「親は“本人の考えも聞かなくては・・・”とか言って、その場を巧く逃げ、女の子、ロミーというんだけど、を親戚の家に隠したの。ところが、ロミーがロマンチストなのね。話しを聞いて感激しちゃって、その男の子を連れて結婚させてくれと親に頼みに行ったの」
「それで駄目と言われて駆け落ちしたわけね」
「そういうこと」
夢中で話を聞いていたら、いつの間にか夕方になった。
「スラマット・ツオーレ(こんにちわ)」
ご主人様のお帰りだ。
わたしは慌てて台所に戻り、エニーを助けて夕食の準備を始めた。
今夜の料理はダギン・バリ(バリ風牛肉煮)にソト・アヤム(トリスープ)そしてイカン・アシン(塩魚)とテンペイ(揚げ納豆)だ。わたしの好物ばかしで後が楽しみだ。
ダイニングルームには八人が楽に座れるテーブルがあり、天井にはシャンデリアが輝いている。
「ジロー、アパカ・スカ・マサカン・インドネシア?(インドネシアの料理は好き?)」
「スカ、スカ」
ご主人は何か奥様に尋ねている。
「ブトュールよ」
「サヤ・スカ・ブトュール(もちろん好きだよ)」
「タタピ・ジロー・ティダ・マカン・バニャック・バゲマナ?(それにしちゃー、あんまり食べないじゃない。どうして?)」とサリーさん。
「サヤ・スカラン・オン・ダイエット(今減量中でね)」
「バゲマナ!ジロー・スダ・トラル・ランピング(ジローはすでに痩せすぎじゃない!)」
「ブトュール・ムンキン・ティダ・スカ・マサカン・インドネシア(ほんとね。多分インドネシア料理嫌いなのよ)」とティアナさん。
ご主人様は困った様な顔をして、奥様に何か頼み込んでいる。
「ジロー・ティダ・マカン・バニャック・カロウ・イトュ・マサカン・ジパング(ジローは日本料理でもあまり食べないほうなのよ)」
「サヤ・イステリ・テレマカシ(私は妻。ありがとう)」
わたしもエニーも吹き出した。サリーさんテイアナさんも、笑いすぎて椅子から落ちそうだ。ご主人様はキョトンとしている。
「アダ・アパ?(どうしたの)」
「ジロー・イステリ・ヤ?(ジローは妻なの)」
「ノー、ノー」
「ジロー・ハルス・ビチャラ・イステリ・アク・ブカン・サヤ・イステリ(ジローは、わたしは妻、じゃなくて、わたしの妻と言わなきゃ駄目よ)」
「アイ・シー(なるほど)」
楽しい夕食を終えて四人は客間に戻った。わたしは大好物のダギン・バリを大皿に二杯も食べて満足した。台所で食器洗いをしていたら、客間が賑やかだ。
「ねー、エニー、客間では何が始まったの?」
「見て来たらいいじゃん」
「でも客間に入ったら叱られるでしょ? ご主人様も居るようだし・・・」
「大丈夫よ。わたしいつも客間でテレビ見てるもの」
「エッ!ほんと? 客間に入っていいの? ご主人や奥様もいるんでしょ」
「そうよ。でもテレビを見るのはティアナさんだけ。他の人は嫌いなんですって」
「ふーん。じゃーあとで連れてって」
「うん。八時になったらアメリカ映画があるし、テレビ見ようか」
八時になった。わたしは恐る恐るエニーの後について居間に入った。
四人はソファセットのテーブルを囲み、床に座っていた。テーブルの上には本やらノートが置いてある。よく見たら、本は小学校の国語の教科書だ。その本ならわたしも家に持っている。
エニーとわたしは、四人から二メートルほど離れて床に座った。テレビの音を小さくして、アメリカの映画を観た。
ご主人様は教科書を広げ、声をあげて読み始めた。ときどき突っかえては、サリーさんに助けてもらっている。次は奥様の番だ。スラスラと上手だった。
「ジロー、今度は書き取りのテストよ。ちゃんと宿題はやってあるでしょうねー」
サリーさんの口調は、えらく厳しい。
「まあね。どうやらなんとかねー」
ご主人様は首をすくめて、フーとため息を付いた。
「今日は忙しかったの? でも昨日の夜、暗記してたじゃない。今日は大丈夫よ」
と、奥様。
そしてサリーさんが二言、三言、英語をしゃべると、二人はノートに長い文章を書いている。
「ウーン」「ウーン」とうなり、ぶつぶつ独り言を言いながら書いているのはご主人様。奥様の方はとっくに書き終わり、ご主人様を心配そうに見ている。
「ジロー! 書けた? じゃー次はヒズ・ドッグ・イートよ。あとは全部言わなくても書けるでしょ。はい。次は・・・」
サリーさんはどんどん続けていく。
わたしはいつの間にか、すっかりテレビのことを忘れてしまい、四人の方に神経を集中させていた。
「ヨシエ、ノートを見せて。うーん、このスペリングが違うわねー。最後にGがつくのよ。でも他はいいわね。よくできてるわ。ジローのは・・・、と・・・。ここも違う、ここも違う。間違いだらけねー。この単語はなによ。”お祈り”はスンバハヤンよ。ジュンバタン(橋)と書いているじゃない。はいここにスンバハヤンと書いてみて、ちゃんと書ける?」
ご主人様は小さくなっている。立派な口髭までちぢんでしまったようだ。わたしはかわいそうで、助けたくなってジリジリした。でもジーとがまんした
次は歌の練習だった。インドネシアは七千の島で形成されており、端から端まで五千キロある広大な国、という歌だ。
「テレビより、こっちの方が面白いわね」
エニーもいつの間にかテレビそっちのけで四人の歌を聞いている。二人とも思わず歌を口ずさんだ。奥様がエクボを見せて、もっと大きな声で一緒に歌え、と合図している。とうとうわたしもエニーも四人の輪の中に入って、一緒に歌ってしまった。
一〇時になってご夫妻は寝室に入り、サリーさんも部屋に戻り勉強を始めた。ティアナさんとわたしたちは一一時過ぎまでテレビを見た。
今日は楽しい一日だった。でも思ってもいなかった事ばかりだった。家主と一緒に歌を歌うなんて信じられなかった。ヒゲのご主人様は恐ろしい感じがするが、でもだいぶ不安は解消された。ここは、やはり外国人の家だなーと思う。
夜、寝る前にお祈りを済ませ、そして母に報告をした。<安心してください>と言うわたしのつぶやきは、母に届いただろうか?
(つづく)