失踪した母親
今日はこの家に、レニーという一四歳の女の子が遊びにきている。サリーさんの親戚の子だ。涼しい瞳に厚ぼったい口びるのレニーは、大人っぽく、おっとりした感じの人だ。
今日は日曜日なので、ご主人様も家でゆっくりしている。そして四人で目を輝かせてブラック・マジックの話をしている。
「あのね、わたしの町にもドクンが居るのよ。この間わたしの筆箱がなくなったの、だからドクンのおじさんの所に行って“筆箱はどこに行ったんでしょう?”と聞いたの。そしたらおじさんは“あーそれは男友達が借りて行ったんだよ、二、三日したら戻ってくるよ”と言うの。本当に二、三日したら筆箱が出てきたの。それでドクンのおじさんに五ルピアお礼したわ」
「ジロー、こういうのはブラック・マジックじゃないのよ、誤解しないでね。本当はもっと恐ろしいのよ。でも、ジローはまったく信じないと言うのね?」
とサリーさん。
「ティダ・ビサ(信じられないね)」
ご主人様は冷ややかに言う。
以前にもご主人様は“インドネシアじゃサリーやティアナみたいなエリート大学生でもブラック・マジックなんて迷信を信じてるだねー。これじゃー、この国の将来は危ういもんだ”と奥様に言ったそうだ。
だがわたしは、そんな考え方こそ“分かってないんだなあ”と思う。念力や霊感や呪術を認めないなんて、片目をつぶって世界を見ているようなものだ。
レニーが昼寝に行ってしまうと、サリーさんはまた話し始めた。
「ジロー、呪術には効果があるのよ!いまレニーが昼寝に行ってしまったから話すけど、二年前に大変な事件があったのよ」
レニー家は雑貨屋で、不自由のない暮らしをしていた。ところがある日、突然、お店を高利貸に乗っ取られてしまった。レニーのお父さんは賭博に夢中になり、高利貸に多額の借金をしてしまっていたのだ。
中国系の人々の賭博好きは病的だ。わたしたち回教徒のジャワ人にはとても理解できない。そしてレニーのお父さんには、そんな中国系の血が濃く流れているのだった。
レニーのお母さんにとっては、まったく突然、店から追い出されることになってしまった。
お母さんは怒り、嘆き、悲しみ、キチガイのようになってしまった。二歳から一五歳まで、八人の子供がいたのだ。これからどうやって生きていったらよいのだろう?
レニーのお父さんは長距離トラックの運転手になった。土曜も日曜もなく、正月休みすら働いて、月に九万ルピアというお金を稼ぐようになった。
でもこの金額では食べるだけが精いっぱいである。お母さんはあまりの貧乏な生活に疲れ、悲しみ、病気がちになって、やがてその姿をくらましてしまった。
突然姿を消したので、何処に行ったのかは判らなかった。しかし、やがて、ジャカルタの親戚の家に行っていることが判った。
だが、その親戚というのは、ある金持ちの二号さんになっている女性で、しかも、夜の世界で商売しているという。
レニーの母にとってジャカルタは、ふるさとだ。しかし夜の世界に足を踏み入れるのは初めての経験だった。
「エレーネ、よく来たねー!わたしのアシスタントになるかい?でも、それよりホステスをした方がいいねー。お前の器量ならたちまちナンバーワンになるよ。そうすると収入も一〇倍にはなるしね。ドレスは持ってきたかい?あー、いいや、わたしの貸してあげるよ。それから泊まるところはあるからね」
細長い顔にすーと高い鼻を持つレニーのお母さんは、スタイルもよく、どことなく上品な雰囲気を匂わせていた。
胸元の大きく開いたドレスを着て、鏡の前に立ったレニーのお母さんは、これが、<本当にわたしなのかしら?>と思うほどの美しさだった。
大きなナイトクラブだった。夜の七時になると、ベンツなどの高級車が駐車場にあふれ、クラブの中では生バンドが演奏を始める。中華料理が運ばれる頃になると、ホステスもテーブルに呼ばれていく。
ホステスは階段教室の様な部屋で、指名を受けるのを待つ。レニーのお母さんも首から番号札をぶらさげ、明るい部屋に入っていた。そして、控え目に部屋の後ろの方に座った。
部屋の前壁は鏡になっており、右端にカラーテレビが置いてある。ホステスは百人ぐらい座っていた。
<こんなにホステスがいて、わたしなんか指名されるのかしら・・・?>と思う間もなく、すぐに番号をよばれた。
階段を降りて、テレビの脇のドアから外に出ると、外の部屋は真っ暗で男たちがひしめき合っており、ホステスの部屋の中を食い入るように見ている。こちらの部屋からは、ホステスの待合室が、特殊ガラスを通して丸見えなのだ。
お客はやさしそうな顔をしたお腹の出たジャワ人の紳士だった。ダンスが上手で会話も巧く、お酒もとうとう少し飲まされ、すっかり良い気分にされてしまった。
「また来ますからね」
紳士はそう言って五千ルピアをレニーのお母さんの手に握らせ、去って行った。
次の客は日本人商社マンのグループだった。五人の日本人たちは会話をせず、ただスローの曲がかかるとダンスをしたがった。
案内役の若い日本人から「ボク、今独身でね、ワイフガ来るまで三ヶ月あるんだけど寂しくて・・・。それで、おこずかい、月に三〇万ルピア出すから、三ヶ月間、恋人になってくれない?」と誘われた。
話がはっきりしており、ハンサムな若者で好感を持った。でも、もちろん断った。
三度目の客は白人だった。ダンスも上手で紳士的だったが、毛むくじゃらなのが気持ち悪かった。一万ルピアのチップを置いていった。
レニーのお母さんは別世界に居た。
男たちには大切にされ、お金は遊んでいるだけで入ってきた。そして何よりも、しばし、家の事を忘れることができたと言う。
(つづく)