クロを殺したのは誰?
クロが死んでしまった。まだ生まれて六ヶ月だというのに。
クロはとてもわんぱくな犬だった。元気が良くて、体が二倍もある大きな犬にも立ち向かっていく。雨が降ると喜んで外へ飛び出し、泥んこになって帰ってくる。
でも猫だけは苦手。以前、顔を引っ掛かれて以来、遠くで吠えてもあまり側には寄らない。
スラバヤの猫は恐いのだ。木を駆け登り、屋根の上を走り、小鳥やウサギを襲い、ネズミを食べて生きている。だから人間に飼われている犬なんて、相手にしない。クロが“ワン”と吠えても、ジロッと見るだけだ。
クロは、わたしがこの家に来た時、すでに居た。ご主人様が友人から貰ってきたそうで、家族の一員だった。チャイナ・プードルという犬の血が混ざっていて、コロコロ太った体つきも顔も、いかにも“やんちゃ”そうで可愛い。
奥様は「この犬には手を焼いているのよ。すぐ噛みつくし、誰にもなつかないし、体を洗うのにも大騒ぎするの。まあ、居ると泥棒よけにはなるしいいんだけど、“やんちゃ”すぎてねー」と、おっしゃっていた。
わたしは動物が大好きだ。このクロはわんぱくだけど、でもやっぱり甘えん坊だ、とすぐに判った。
クロはわたしにはすぐなついた。わたしには喜んで抱かれるし、体を洗っても嫌がらずにジーッとしている。
わたしがクロを抱いて庭に出て行ったら、ご主人様がビックリして、奥様に何か言っていた。
たぶん“クロがデウィに抱かれているよ!信じられない!あの犬が・・・”とでも言っていたのだろう。外国語を喋っているので、もちろん理解はできないけど、でも雰囲気で判る。クロがなついてくれたので、わたしの評判もだいぶ上がったようだ。
その日の夜、奥様が「主人が本当に驚いていたわよ。“クロがデウィに抱かれて嬉しそうな顔をしている・・・”って、本当によくなついたわね。助かったわ」と、言ってくれた。
やがてクロは、メイド部屋の中で寝るようになった。
子犬のクロは隣近所でも有名だ。チビなのに大きな犬と喧嘩はするし、子犬たちを追っかけて、泣かせてしまう。吠える声だってまだ子犬なのに、大人のメイドまで逃げ回っていた。
でも考えてみるとおかしなことだ。このジャワ島では昔から犬を食用にしている。わたしだって子供の頃、食べたことがある。スラバヤの北のスラウッシュ島では、犬をいつも食べている。西のスマトラ島のバタック族の犬料理だっておいしくて有名だ。
取って食われるのは犬の方だし、それを考えたら恐ろしがることは無いと思う。
それに、わたしたち回教徒は犬を不浄の動物だとしている。だから犬に触れたがらない人が多い。でもわたしは犬が好きだから気にしてない。
クロが風邪を引いたのは、わたしが来てから三ヶ月ほどたった頃だった。
鼻の頭が乾き、様子がおかしい、と奥様に報告したら、すぐにクロを見に来て「すぐ医者に連れて行きなさい」と言われた。
わたしはエニーとベチャに乗り、犬の専門医の所に行った。
「ああ。これは風邪だな。注射を打っておくか」
代金は七千ルピアだった。わたしの一ヶ月分の給料と同じだ。
クロは二〜三日元気そうにしていた。ところが四日目頃から、また様子がおかしくなってきた。食欲も元気もないのだ。奥様に相談したら
「じゃー、この抗生物質を飲ませてみましょうか」
と言って、白いカプセルを渡してくれた。この薬も効いたようで、二〜三日、クロは元気にしていた。
でも、クロは少し元気になると、丸々と太った体をゆすり、また雨の中に飛び出して行き、ドロンコの中で転げ回るのだ。“これじゃ、いつまでたっても全快しないわねー”と話し合っていた矢先に、クロの様態が急におかしくなった。
今回は今までとはちょっと違っていた。ゼーゼー、口で荒い息をし、歩くのもつらそうだ。
「今すぐ医者に連れて行ってちょうだい」と、奥様。
外はどしゃ降りの雨だった。スラバヤでは、雨期になると、一日一回大雨がある。普通は二〜三時間、大粒の雨が降ると青空が顔を出す。
でも、今はそんなこと言ってられない。わたしとエニーはどしゃ降りの中、クロを抱いて医者の所に行った。
「あー、これはジステンバーにかかってるね。四〜五回注射を打てば助かるよ」
「費用はどのくらいかかりますか?」
「ウーン、五〜六万ルピアは必要だな・・・」
エニーとわたしは顔を見合わせた。クロを助けるためには大金がかかるのだ。
「あのー、ご主人様にどうするか聞いてきますので」
「ああ、いいですよ。今処方せん渡すからね。今度来る時は、薬局でこの薬を買ってくるんだよ」
「はい」
わたしたちは処方せんを受け取り、四千ルピアを払い帰宅した。
「あら、注射は打ってこなかったの?」と、奥様。
「はい。クロはジステンバーという病気にかかっているそうです。薬局に行って、処方せんに書いてある薬を買って持ってこい、と、お医者様が言ってました」
「あら、ジステンバーなの?それじゃー大変ね。悪いけど、薬を買って、またすぐ医者に行ってくれる?お金はいくらぐらい渡せばいいのかしら?」
「この薬、五〜六万ルピアもするそうです」
「エッ? 六万ルピアもするの? 高いわねー。でも、可愛いクロの命には替えられないし・・・」
「・・・・・・・」
「じゃ、悪いけど、もう一度行ってきてくれる?」
「・・・・・・・」
「ハイ、これがお金」
「・・・・・・・」
わたしもエニーもお金は受け取らなかった。
「奥様、犬にそんな大金を使うなんて・・・。そんな必要はありません」
「エッ?でも、かわいそうでしょ?」
「インドネシアでは、犬にそんな大金使わないんです。このまま放っておきましょう」
「そんなこと言ったって・・・あんなに可愛がっていたのに」
「いいんです、奥様。クロが病気になったのがいけないんです」
「・・・・・・・」
今度は奥様が沈黙していた。
しばらくして、
「わかったわデウィ、あなたの言う通りにするわ。でも、本当にいいのね?」
と奥様は聞く。わたしは心を鬼にして、
「はい」
と答えた。
午後七時にご主人様が帰宅した。奥様はなにやらご主人様に相談を始めた。また“医者に連れていけ!”と言われるのかも知れない。だが、何も言ってこなかった。
もし、“医者に連れて行け!”と言われても、わたしは断るつもりだった。
なぜって、わたしは、村でたくさんの赤ん坊が医者にかかれずに死んで行ったのを見ているからだ。
わたしの妹だって、七千ルピアのお金が無いため医者にかかれず、危うく死ぬ所だった。だからわたしは、<犬に大金をかけてはいけないのだ!>と思う。
月夜だった。
クロは熱のある体を、ベランダの冷たい大理石の上に横たえていた。ヒーヒーと鳴いている。
喉が乾いているのに違いないので、冷たい水をお皿に入れて持って行った。クロは夢中でペチャペチャ飲んだ。だが、わたしの方を見ようともしない。すぐうつ伏せになった。
一晩中、クロは苦しそうに、ヒーヒーと泣いていた。その悲鳴もだんだんと弱々しくなってくる。東の空が白くなってきた頃、クロは静かになった。
わたしは、一晩、まんじりともしないで起きていた。クロの事もいろいろ想ったけれども、それよりなぜか、村に居る妹や弟の事が、懐かしくてたまらなかった。
庭の片隅にエニーと二人で穴を掘り、クロのお墓を作った。クロの固くなった重い体を二人で持ち上げ、穴に入れ、土をかぶせた。ベランダには奥様が出て来ていた。やはり一晩ねむれなかったようだ。赤い目をしていた。
わたしは不思議なことに悲しくなかった。ただ、フツフツと心の中で怒りの炎が燃えていた。怒鳴りたかった。どうしてだか、自分でもよく判らない。ただ怒りが心の底から盛り上がってくるのだった。
この怒りはたぶん、ご主人様や奥様の無知にも、クロを死なせてしまったわたし自身にも、そして、どうにもならないこの世の中にも向けられているのだろう。
クロのお墓の上に小さな木を植えた。この木が成長すると、やがて、葉が、怒りの炎のように、赤く燃え上がる。
(つづく)