シスター・アティの行方
一年中暑いスラバヤでも、朝夕は涼しい。とくに朝は、空気もヒンヤリしていて、一日で一番気持ちの良い時だ。
だいぶんお腹も大きくなってきた奥様は、この朝の空気が大好きで、今日も早起きし、ベランダの白い椅子に座り、景色を眺めている。
「デウィ、あの白い制服を着た人たちは看護婦さんかしら? それともただの保母さんなのかしら?」
道路を見るとシスターたちが赤ん坊を抱いたり、ヨチヨチ歩きの子供の手を引いて散歩している。
「看護婦さんですけど、実際には母親がわりに赤ん坊を育てているし・・・乳母になっているし。パートタイムの人もいるし、いろいろです」
「そお、赤ん坊のいる家には必ずシスターがいるようね」
「えー、とくに中国系の家では母親がすぐ仕事に出てしまって、子育てはシスターに任せてしまうし・・・」
「そうみたいね。わたしもシスター雇ってみようかなー」
「ヨシエ、それは当然よ。初めての赤ん坊でしょう。シスターがいたら安心よ」
サリーさんだった。サリーさんはいつも朝早く起きて、部屋の中で勉強している。今日はわたしたちの話し声を聞きつけて、出てきたようだ。
「でも、どのくらい任したらいいのかしらね?」
「そりゃー、なるべく何でも自分でやった方がいいわよ。あまりシスターに任せると、赤ん坊がヨシエを見て泣きだすようになるわよ」
「イヤーね。もちろん何でも自分でやるつもりよ。でも、やっぱり初めてでしょう。チョット不安な事もあるの。例えば・・・お風呂の入れ方とか・・・。だからせめて、最初の一ヶ月位、一日おきぐらいに来てくれたらいいな・・・」
「そうね。一人ぽっちだものね。ヨシエのママは日本から来ないの?」
「ウン、この間電話があったけど“来なくても大丈夫”と断ったの。母もノン気で『そのうちヒマができたら、赤ん坊を見に行くわ』と言ってたわ。でも・・・本当はね、わたし、サリーのお母さんがいるから安心しているの。何か困ったら電話するわ」
「そうね。うちのママが居るから大丈夫ね。じゃー、パートタイムのシスターを探せばいいのね」
「奥様、アティおばさんご存知ですか? 向かいの家のシスターですけど・・・」と私。
「えー、知ってるわ。やさしそうな顔をした人ね。あんなシスターだったら安心ね」
「すごく評判がいいんですよ。もうすぐ散歩から戻ってくるから、働いてもらえないか、聞いてみたらどうですか?」
「でも・・・、向かいの家から取り上げてしまうわけにもいかないし・・・」
「ヨシエ、こういうことは聞くだけ聞いてみるものよ。わたしが聞いてあげようか?」とサリーさん。
「じゃー、お願い」
サリーさんは道路に出て行き、散歩からの帰り道のアティさんをつかまえ、話し込んでいる。そして戻って来た。
「ヨシエ、アティさんは駄目だって。もう予約がいっぱいなんだって。でも親しい友達にいいシスターがいて、紹介してくれるそうよ」
「よかった。ありがとう。サリー。でも・・・随分長いこと話していたわね」
「ウン、いろいろ問題があってね。アティさんはあの家辞めたいらしいわ」
「また、なんで?」
「もう、三ヶ月も給料もらってないんですって」
「エー、どうして?」
「家主が、アティさんを引き止めておくために、わざと払わないのよ」
「そんな・・・ひどい・・・それでサリーに相談してたのね」
「まあね」
「それで、なんて助言したの?」
「ウン。『労働基準監督署に訴えてやる!』と、脅かしてみたら・・と言っといたわ。多分脅しだけで、三ヶ月の給料を払うと思うけどね・・・」
「でも、レーバーオフィスって頼りになるの?」
「そうね、五〇〇〇ルピアも払えば、すぐ警告の手紙ぐらい出してくれるわよ。でも、その前に解決すると思うわ。なにしろ中国系は、官庁とか警察を恐がっているから・・・」
「サリーって頭がいいのね」
「これでも大学で法律を勉強しているのよ!」
サリーさんの助言は効果てきめんだった。
家主は慌てて三ヶ月分の給料を払い『これからは毎月払うから辞めないでくれ・・』とアティさんに頼み込んだ。
家主の若夫婦は中国系で、お店を持っており、夜も昼なく働いている。一年に店を閉めるのは、中国暦の元旦、一日だけだ。子供も三人おり、アティさんが母親代わりだった。
アティさん自身にも子供が二人いて、主人もいた。でも月一回しか休暇がもらえない。
「今度からは給料は前払いにしてください」というアティさんの申し出も認められた。
半月後、アティさんの姿が消えてしまった。前払いの給料を受け取った直後だった。
「アティさんもよほど怒っていたのね」
「そうですね。無理もないと思いますけど・・・」と私。
「これでまたシスター探しもやり直しね。ところでデウィ、よかったらシスターの学校に行って勉強してこない? お金は出してあげるわよ」
「エッ! でも・・・それは」
シスターになればメイドは辞められる。給料だって三〜四倍になる。でもその代わり、責任は重いし、赤ん坊の面倒を見るのだから夜中に起きてミルクを飲ませたり、トイレに連れて行ったりしなくてはならない。二四時間勤務の重労働だ。
わたしにシスターの仕事が勤まるだろうか?
それより前に、わたしにはシスターになる資格がないのだ。小学校も卒業してないわたしが、シスターの学校に行ける訳がない。
「奥様、シスターの学校に行くには、中学校を出てなければいけないんです。でも・・・わたしは、子供の時から子守をしてるし、シスターの仕事には慣れてますから、できる限りのことはしますから・・・」
「ありがとうデウィ。でも残念ね。資格がないのは・・・」
「・・・・」
(つづく)