ご主人様はある日、口ヒゲを剃ってしまった。口ヒゲのあるご主人様は、映画スターのヤスマン・リバイのように素敵だったのに・・・。
「どうして口ヒゲを剃ってしまったんですか? 奥様?」
「ヒゲを伸ばしても、さっぱり女の子にもてないんですって。会社の秘書からは、『みっともない』と言われるし、誰も誉めてくれないんで剃ったのよ。かわいそうに」
口ヒゲのあったご主人様はアラブ人のように見えた。ヒゲを落としたら、今度は大学生のように若く見える。目は相変わらず鋭くて恐いけど、あまり怒らない。そして何を考えているのかさっぱり分からない。
ご主人様のインドネシア語も独特だ。
「デウィ、マティ、マティ、ニャモックどこにあるの?」
と、ご主人様。
『マティ、マティ、ニャモック』て何だろう?と、わたしもティも考えた。
「『死ね、死ね、蚊?』あっ!殺虫剤のことか!」
と、やっとこ判った。それからわたしたちも、殺虫剤のことを『マティ、マティ、ニャモック』と呼ぶことにした。
ご主人様に比べると、奥様のインドネシア語は格段に上だ。流暢な上、発音に『なまり』がまったく無い。
先日も半年間、毎日のように屋台を押して来ていたパン屋さんが
「実は、奥様が外国人とは知りませんでした・・・」
と白状した。ここで生まれ育った中国系だと思っていたのだ。
奥様は寝間着のままで家の外に出て野菜やパンを買ったりする。でもこれは、スラバヤでは当たり前の風景だ。わたしたちは普段着も寝間着も区別しない。
うちの奥様が寝間着姿で外に出るようになったのは、最近のことだ。それだけに社会に溶け込んで来たのだろう。
もっともご主人様は、奥様が薄地のロングドレスの寝間着で道路に出ると
「なんだ、ハダカで外にでるのか・・・」と、呆れている。
野菜屋さんは、自転車にいっぱい野菜を積んでやってくる。
「あら、このキャベツだいぶ汚れているわねー。ただで頂戴よ。また明日、いろいろ買ってあげるから・・・」
奥様はただで大きなキャベツを手に入れてしまった。
本当のところ、最近では、わたしたちと同じくらい、値切るのが上手になっている。昔は高く買わされていたのに、今では、安く買いすぎるんじゃないか・・・?と、相手が気の毒になる時すらある。
でも、この野菜屋さんのように、相手を信用して気に入ると、毎日特別注文し、良い物を高く買っているから、いいんだろう。
最近来るようになったパン屋さんも、奥様のお気に入りの一人だ。
あるとき、奥様がパン一斤買って二百五十ルピア渡した。二日後にまたそのパン屋さんが屋台を引いてきて、奥様がまた同じパンを買った。
「いくらでしたっけ、このパン?」
「二百五十五ルピアです」
「あら、それじゃ、この間、五ルピア足りなかったんじゃない? 何で言わなかったの?」
「いつも買って頂いているからいいんです。サービスしようと思って・・・」
「何言ってんのよ。あなたは正価販売しているんでしょ。ごめんなさいね」
と、奥様は五ルピア余分に支払った。
奥様は、こういう人は珍しいという。
「みんな、少しでも余分にお金を取ろうとするでしょ・・・」
と、いうわけだ。それ以来、この四十歳になるパン屋さんも、この家の仲間の一人となり、親しくなった。
ティが歯痛で一晩眠れなかった。翌日も一日中、働きながら顔をしかめていた。奥様も当然気がついた。
「どうしたのティ、歯が痛いの?」
「えー、昨晩、急に痛みだして・・・、とうとう一睡もできませんでした」
「じゃー、痛み止めの薬あげるわ。早く言えばいいのに・・・」
そこへご主人様が帰って来た。奥様はご主人様と、何かしきりと話し合っている。
奥様が心配そうな顔をして、メイド部屋にやって来た。
「主人が『このさい、ティの歯を徹底的に治したら?』と言ってるのよ。お金はうちで払いますから、今すぐ歯医者に行ってらっしゃい」
わたしもティもびっくりした。
「いーえ、奥様、そんなにしていただかなくてもいいんです。でも今からちょっと、医者に行かせてください」と、ティ。
奥様はティに一万ルピア手渡して、客間に戻ってしまった。
『徹底的に治せ』と、二人は言って下さっているのだ。ティの目はうるんでいた。
「どうしたの、ティ」
「なんでもない・・・。でもデウィ、奥様が払って下さるなら、なるべく安くあげるわ。高くなるようだったら抜いちゃうわ」
わたしにも、このティの気持ちはよく分かる。わたしたちはこの家で、一人前の社会人として、大切にされている。だからこそ、奥様に甘えすぎてはいけないのだ。
奥様はお金持ちだから、何にでもお金をかけられる。でも、わたしたちはメイドなのだ。メイドは、なるべく、何にでもお金をかけないようにしなければ、そのうち生活できなくなる。
医者に行ったら、すぐ歯を削ってセメントを埋めた。これで当分はもつだろう。医者は「まだ抜くのはもったいないよ。痛くなったらまたおいで」という。四千ルピア支払った。
わたしもティも、子供の頃から母にやかましく言われ、毎日、口に塩を含み、手でゴシゴシ歯を擦ったものだ。この頃は、ご主人様と奥様が捨てた歯ブラシを拾い、それで毎日歯を磨いている。だから二人には、虫歯はほとんど無い。
ティが六千ルピアを奥様にお返ししたら、
「あら、一回で済んだの? もう行かないの?」
と、怪訝な顔をした。
「はい、もう歯は痛くありません。ほら、白いものが詰まっているでしょう」
ティは大きく口を開けた。奥様は中をのぞき込んで、
「あらほんとだ、じゃー、また医者に行くときは言いなさいよ」
「はい!」
二人そろって元気よく答えた。でも、今度行くときは、奥様に内緒で、自分たちでお金を払おうと思っている。
(つづく)