もう十二月になってしまった。来月になったら、ご主人様も、奥様も、マーナも日本に帰ってしまう。
マーナは生後九ヶ月になり、もう伝い歩きしている。二〜三歩なら、なんにも掴まらなくても歩く。近所の中国人たちの赤ん坊は、みんな頭を丸坊主にしているが、マーナは伸ばしたままなので、とくに可愛らしい。とくに天然パーマで、髪の毛が耳のところでカールしているのが可愛い。
マーナは三ヶ月児で離乳食を始め、八ヶ月になったら、ご主人様と同じ物を食べている。わたしの国では、八ヶ月児には、まだおかゆしか与えない。
マーナの食事は奥様が作り、ご主人様の食事はティが作っている。
サリーさんが住んでいた頃は毎日、インドネシア料理だったのに、今は日本料理が中心だ。おかげで、ティは奥様から日本料理の作り方、味付けを教わった。
奥様もひと頃、毎日のようにインドネシア料理を作っていたのに、この頃はまったく作らない。使う香辛料の種類が多くて面倒だという。インドネシア料理用の香料は、少なくとも二十三種類はある。そして、一つの料理に七〜八種類の香料を使う。それに比べると、日本料理の味付けは簡単なようだ。
ティもわたしも、日本料理は片っ端から味見してみた。でも、生の魚肉だけは口に入れられなかった。せめて油で揚げてもらわないと、とても食べられたものではない、と思う。
他にとても食べられない、と思うのは、ソーメン、納豆、ヒヤヤッコだ。トウフはわたしの国でも最もありふれた食物で、値段も安い。でも、決してナマでは食べない。必ず油で揚げる。
「トンカチュ」「クロケット」「オムレチュ」もご主人様の大好物だ。
奥様はいつも、
「とんかつ、コロッケ、オムレツと発音するのよ、はい、もう一度言ってごらんなさい」
「トンカチュ」
「クロケット」
「オムレチュ」
と言わせる。
わたしたちはどうしても『ツ』という発音ができないので、奥様にコロコロと笑われてしまう。
「クロケット」いや「コロッケ」は、インドネシア料理の中にも、味は違うが、ある。だから、すぐ「クロケット」と呼んでしまう。
あるとき奥様が、「お留守番、ご苦労様」と言って、チョコレートという茶色いお菓子をお土産にくれた。
チョコレートは、ドーバ村近辺では見たことがないし、スラバヤでも買ったことがなかった。
でも、このおいしいこと!
奥様は、わたしたちが大好きなのを知ったらしく、それから、外出する度に買って来てくれた。ティの虫歯も、チョコレートの食べ過ぎが原因かな?
一月になった。
もうすぐマーナとお別れしなければならない。
ここを辞めたら、ティもわたしもドーバ村に帰ることにしている。
昨年、回教のお正月にドーバ村に帰ったとき、二人とも秘かにお見合いをしてきたのだ。このことは、長いこと、奥様にも内緒にしていた。
ティの相手は四十歳ぐらいのおじさんで、すでに一回結婚しており、子供が一人いる。お母さんは「いい人だし、生活も安定してるから、結婚したら?」と言う。でもティはまだ決めてない。
わたしの方は、幼なじみのブディ君だった。ブディ君は小学校時代の一年先輩で、わたしたちの面倒をよく見てくれた。大きくなってからも、ときどき会ったことがある。
働き者のブディ君は、今では街道筋に小さな雑貨屋を持っている。そのブディ君がご両親とドーバ村に来て、母に「デウィさんと結婚させて下さい」と、言ったという。
ブディ君は体のガッチリした男の子で、中学校を卒業している。親は高校まで行かせようとしたが、ブディ君が断って、そのかわり雑貨屋をはじめるから援助してくれ、と頼んだそうだ。そして、今ではお店も順調で、そろそろ結婚したくなったという。
わたしも十八歳という適齢期だ。わたしの友達のほとんどは、もうすでに結婚している。十九歳のティなどは、もうすでに遅い方だ。
わたしはブディ君のこと、嫌いじゃない。だから、結婚してもいいな・・・と思った。でも、わたしにはお勤めがある。わたしの奥様とマーナがスラバヤを発つまで、どうしても一緒に居たいと思う。だからブディ君に会ったとき、はっきり返事はしなかった。今度帰ったとき、まだブディ君が待っていてくれたら、そのときは結婚するかもしれない。
そのままスラバヤで働かないか、という誘いもあった。
給料は今と同じで、その家には洗濯機もあり、しかも、ティと二人で働けるという。その家に行ってみた。そしたら、その家にはメイドが三人もおり、人は探してないという。メイド同志の情報も、あてにならないことも多い。
向かいの家からも「うちに来ないか?」という誘いがあった。でも、ここの奥方は、メイドを人間扱いしてこなかったのを知っている。だからもちろん断った。
ただ、この家のメイドの扱い方は、明らかに改善されている。わたしの奥様の影響もあるのだろう。その家の新しいメイドは前のメイドに比べて、大幅に自由が与えられており、よく買物にも出かけて行く。
ティは、「やっぱり、まだ結婚したくないわ」という。
「わたしは街道筋にお店を開きたいの。まだお金が足りないけど、もっとメイドを続けてお金を貯めて、そしてお母さんも引き取ろうと思うの・・・」
ティはいつもながらに、たくましい。体格も良いけど気も強いし、なにしろ実行力がある。欲しいものはたいてい手に入れてしまうから、商売を始めても、成功するかもしれない。
わたしは体も強くないし、商売も好きじゃない。なにか、人を騙しているような商売人が多く、嫌なのだ。才能も無いと思う。
だんだんと出発の日が近づいて来た。わたしたちは、着物や食器、その他いろいろな雑貨を奥様から頂いた。
今夜は、久しぶりにパーティーがあり、ご主人様が外出する。ご主人様のいない夜には、ティとわたしは必ず奥様の部屋に行き、マーナと遊ぶ。だから、早く、何かあって、ご主人様が外出しないかなー、と待っていたのだ。
今夜がマーナと遊ぶ最後の夜になるだろう。夜になって大雨が降った。ピシッ、ピシッと大粒の雨が屋根にあたり、室内の会話も声を大きくしないと聞こえない。雷も鳴り始めた。いつもなら、ティもわたしも奥様も、キャーキャー言って恐ろしがり、体を寄せ合うのに、今夜はそんな気分にもなれない。それよりも、少しでも長い時間、マーナのこと見つめていたい。
マーナは、わたしのこと覚えていてくれるかなー? まだ十ヶ月だから無理だろうなー。今度会えるのはいつだろう?
マーナはわたしたちによくなついてくれた。わたしが部屋に入っていくと、マーナはキャッキャッ言って飛び上がり、ヨチヨチころびつつ歩き、笑いかけてくる。こんな風にされるとわたしはもう負けてしまって、抱き上げてしまう。
明日の朝、四時にこの家を出ることにした。奥様、マーナ、ご主人様は、わたしたちを見送った後、この家を出るという。
今日は一日がかりで部屋の掃除をし、部屋を片づけた。マーナとのお別れも済んだ。明日の朝は、マーナの寝ているうちに発ちたい。マーナに甘えられたら、余分に涙がこぼれることだろう。
できたら、明日の朝は、泣かないで奥様と別れたいと思う。新しい人生の門出なのだ、と思いたい。今夜は一睡もできそうもない。
ご主人様はさっさと寝てしまった。奥様は一緒に起きて、台所をもう一度片づけたりしている。
「奥様、ひとつだけ心残りがあるんです・・・。一度でいいから、田舎の母に会って欲しかったんです・・・」
「ほんとにねー!わたしも是非会いたいと思っていたのよ。ドーバ村に行こう、と主人とも話していたのに・・・、残念ねー、実現できなくて」
「きっと話が合うと思うんです」
「そうね・・・。今度スラバヤに来たら必ず行かせてもらうわ」
「いつですか?」
「それが、今のところ全然わからないの。なるべく早く、また来たいと思うけど・・・」
「奥様、約束して下さい。わたしもティもマーナにまた会いたいんです。ねー、お願いします。また会わせて下さい」
「それは約束してもいいわ。必ずマーナを連れて来て、デウィとティに会わせるわ。なにしろ、あなたたちが育ててくれたんですものね」
「お願いします」
あっという間に夜が過ぎてしまった。
「そうだ! 隣の家で働いている、若い大工さんたちにも挨拶しなきゃ!」
ティの言葉にハッとし、わたしも慌ててティの後を追った。隣の家に行き、ドアを叩き、若者たちを起こすと、みんな寝ぼけまなこでゾロゾロ出てきた。この一週間ほど、毎晩のように楽しくお話ししていた男の子たちで、ティはその中の一人と、恋仲になりかけていたのだ。
朝の四時になった。いよいよお別れだ。
外はまだ真っ暗だ。
朝の空気はヒンヤリと冷たい。
ベチャは時間通りに迎えに来て、待っている。
親友のリーも来てくれた。
ご主人様も起きてきた。
マーナはもちろん寝ている。
夜空には、たくさんの星がキラキラと輝いている。
一年と半年間住んだ家が、夜空にクッキリ、黒いシルエットとなって浮かんでいる。
他の家からもメイドが出て来てくれた。
いよいよお別れだ。
サヨナラ、奥様、ご主人様、マーナ。
ベチャが走り出すとき、わたしは奥様への贈り物と手紙を、奥様に手渡した。
奥様の瞳にはキラッと光るものがあった。
奥様も封筒をくれた。
わたしとティは、つとめて快活に明るく振る舞った。
ベチャが動き出した。
後ろを振り向いてみた。
みんなが手を振っている。
わたしもティも手を振った。
ベチャがゆっくりと道を曲がった。
その一瞬、後ろを見たら、みんなは、まだ手を振っていた。
サヨナラ奥様、マーナ、ご主人様・・・。
ティを見た。
涙が、大きな瞳をおおっていた。
わたしも、突然、前の風景が二重に見えはじめた。
<奥様への手紙>
バティック布一枚
デウィとティより、奥様への贈り物。
わたしたちは、何もたいしたものを買って、贈ることはできません。
そして、奥様にはお礼のしようもありません。
ただ、ご主人様、奥様、マーナが無事に帰国されることを祈っています。
ここで働いている間、わたしもティも、至らぬ点が多かったと、お詫びします。
奥様も、いろいろ我慢されたことと思います。
ありがとうございました。
<奥様からの手紙>
デウィとティにはお礼のしようもありません。
ほんとうに良くしてくれてありがとう。
この五〇万ルピアは主人と私からの贈り物です。
屋台が買えるといいな、と思っています。
サンパイ・キタム・ラギ(また会いましょう)
(END)