kitombo.com | 大地舜のフォトギャラリー | 2006年2月20日 
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大地舜のフォトギャラリー
「大地舜のフォトギャラリー(59)
縄文文化(2)」

大地舜
2月20日

 鹿児島県の上野原台地には9500年前に栄えた縄文集落があります。上野原遺跡です。ここには竪穴式住居跡が52軒、煙でいぶして薫製を作った施設と考えられている連結土坑が16基、調理場の跡と考えられている集石が39基、貯蔵庫か墓の可能性がある土坑が260基、南北に走る道の跡が2本発見されています
 上野原遺跡には数回訪れるチャンスがありました。展示で興味深かったのは最初の写真で、1万2000年前の縄文土器です。これは種子島で見つかったものですが、土器の壁が薄く精巧に見えました。種子島に1万2000年前の遺跡があるとは不思議ですね。縄文文化が南方から伝わってきた可能性が示されていると思います。
 この上野原遺跡の縄文土器の特徴は2枚目の写真のように、四角いものがあることだと思います。真四角の土器もありましたし、このようなスタイルは九州以外では見たことがないように思います。日本各地の縄文文化はそれぞれ独自の文化を開花させていたのですね。
 上野原台地は見晴らしがよく、南には青い海が広がり、煙を吐く桜島が見えます。北を見ると建国神話で名高い霧島連峰の雄姿が望めます。
 日本中のいろいろな縄文遺跡を訪ねてみましたが、一つの特徴があります。それはいずれも、風光明媚な場所にあることです。上野原遺跡の立地も、そんな典型の一つです。
 3枚目の写真は薫製を作ったといわれる連結土坑です。写真の卵は薫製されており、おいしく頂きました。簡単な装置ですが、縄文人もグルメだったようですね。この連結土坑は、関東の縄文遺跡でも見つかるそうです。
 上野原遺跡からは7500年前の集落も見つかっています。
 ここからは国内最古の壷形土器がたくさん見つかっています。壷形というのは土器のトップの部分が絞られているもので、煮炊きには向きません。そう、米粒などを貯蔵するのに適しているのです。ということは、すでに農業に従事していたことが考えられます。壷形土器は弥生時代に発達したと考えられていましたから、これも新発見だったわけです。
 7500年前の集落からは直径が20センチもある耳飾りや、土偶、それに異形石器と呼ばれる、使い道の不明な小さくて奇妙な石器も発見されています。
 写真4も上野原の土器ですが、薄手で精巧な造りであることが伺えます。
 上野原遺跡は桜島などの火山活動で滅亡したと考える人々もいるようですが、その前に既に衰退していたと考える考古学者も多いようです。
 これまでは、東日本が縄文文化の中心と考えられていましたが、上野原遺跡の発掘によって、その常識が覆されています。上野原遺跡は三内丸山遺跡よりも4000年も古いのです。
 日本を縦断して縄文遺跡を見学しましたが、それで分かったことの一つは、少なくとも5000年前には地方分業ができており、各集落で特徴ある特産物を製作し、お互いに交換していたことです。
 9500年前から薫製を作っていた縄文人たちは、豊かな生活を楽しんでいたようですね。天災はいろいろあったことでしょうが、日本列島は住みやすい豊かな島だったのではないでしょうか。
 5番目の写真は秋田県にある大湯環状列石の中心部です。大湯には2つの環状列石(ストーンサークル)がありますが、それぞれ直径が42メートル、48メートルあります。このような組石遺構が2ヶ所に隣接して存在しますが、空から見ると2つの輪が、まるで眼鏡のように見えるそうです。もっとも2つの輪の間隔は90メートルもあります。
 環状列石に使われた石の数は7000個で、5キロ離れた川から運ばれている特殊な石だそうです。ここは標高180メートルの台地ですし、なんでわざわざ遠い川から運んだのでしょう? それにストーンサークルの中には住居跡がありません。つまりお祭りの場であったようです。あるいは日時計であり天体観測用だったと考える人々もいます。
 6枚目の写真がどこの環状列石だったかが、よく分からないのですが、いろいろな規模の、いろいろなスタイルの環状列石があることは間違いありません。海の底にも似たような組石遺構があることは『神々の世界・アンダーワールド』〔グラハム・ハンコック著〕が取り上げています。
 7枚目の写真は北海道のオショロ環状列石です。規模も大きく石も大きいのが特徴です。そばには別のスタイルのストーンサークルがありますが、ストーンサークルは2つが組みになっているのかしれません。また高台にあるのが一つの特徴だと思います。
 9500年前の日本はどんな所だったのでしょう? いや7500年前でよいですから戻ってみたいものです。

(つづく)

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