kitombo.com | げんさんの住処 | 2005年2月14日 
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げんさんの住処
「げんさんの住処1」

網中裕之
2月14日

 九月も半ばだというのに、大阪の夏は何とも言えずムシムシしている。とりわけJRの鶴橋駅付近、焼き肉屋が多いせいか、大阪のなかでもことさら暑さが厳しい気がする。
 浜崎元は夕方の混み合った環状線からホームに降り立った。だぶだぶの綿ズボンにランニングシャツ、肩にはくたびれたワイシャツを羽織っている。まいどの夏の姿である。七十二歳にもなって、お洒落なんぞしても仕方がないと思っている。
 「どないなっとんねん今年の夏は。地球温暖化が大阪に集中しとるんちゃうか」
 浜崎はひとり文句を吐きながら、ホームのベンチに腰を下ろした。ズボンのポケットからクシャクシャになったタバコを取り出し、マッチで火をつけた。
 「まいど、ゲンさん。今日はどないでしたか」
 顔見知りの駅員が声をかけてきた。本名は(はじめ) というのだが、街のひとはみんな(ゲンさん)と呼んで いる。生まれてこのかたずっとこの地で暮らしてきたの だから、みな顔見知りみたいなものだ。
 日曜になると、ゲンさんはたいてい競馬場へと出掛け ていく。長年染みついた若い頃からの習慣なのである。 今日はどないでしたかというのは、言うまでもなく競馬 の戦績のことだ。
 「どないもこないもあるかい。取ったんは最初の二レ ースだけや。二千五百円もいかれてしもたわ」
 ゲンさんは腹立たしそうにタバコを足元に投げつけた  「かなわんな。ホームを汚さんとってや。第一ここは 禁煙やって、いつも言うてますやろ」
 「やかましわい。だいたい喫煙所がなんでホームの一 番端っこやねん。あんなところまで年寄りを歩かせよう ちゅうんか。ここは大阪じゃ、日本の法律なんか通用せ えへんのや」
 「わかった、わかった。ほな、気いつけて帰りや」
 駅員はニコニコ笑いながら、ゲンさんが捨てたタバコ を拾って去っていった。憎まれ口をきいても、みんなゲ ンさんのことを慕っている。その心根の優しさを知って いるからだ。
 改札を抜けると、ゲンさんはガード下の路地をのんび りと歩いた。国道沿いの道のほうが早く家に着くが、昔 ながらのガード下が好きだった。串カツ屋「鉄ちゃん」 の看板に明かりが灯っている。店の中に椅子はなく、客 は立ったままで串カツをほおばり、コップ酒をあおる。 大阪にはこの手の立ちのみ屋が多い。いかにもせっかち な大阪人の気質を現している。
 「鉄ちゃん」の牛串カツは絶品だ。それを一本と肝カ ツを一本、野菜の串を二本にコップ酒を二杯。いつもの ゲンさんのコースは決まっている。勘定は千円でお釣り がくる。暖簾をくぐろうとして、ゲンさんはふと立ち止 まった。
 「あかん。やっぱり今日はやめとこ。二千五百円もい かれてしもたからな。こんどこそ万馬券当てて、死ぬほ ど牛カツ食うたるからな」
 ゲンさんは月に十二万ほどの年金で暮らしている。ア パートの家賃は二万円。残りの十万が生活費だ。まあま あ一人で生活するにはできるが、贅沢はできない。
 細い路地をクネクネ歩くと、小さな工場が立ち並ぶ一 角がある。ゲンさんも十年前までは、小さなネジ工場を 経営していた。町は活気に溢れて、たくさんの人間が働 いていた。なかでもゲンさんのネジには定評があり、大 手の建築会社や自動車メーカーがこぞって注文にやって きた。一時は七人もの人間を雇っていたこともある。
 その自慢の工場も、十年前に倒産した。いくら技術が 高くても、単価の安い中国製品には負けてしまう。一代 で築いた工場や土地も、きれいさっぱり借金のかたに取 られてしまった。ゲンさんの工場の跡地は、時間貸しの 駐車場に変わった。
 「あほんだら」
 駐車場の前を通るたびに、ゲンさんは小さく呟く。誰 に恨み言を言うわけでもない。取引先の会社のせいでも、 中国のせいでもない。ただ自分の不甲斐なさに対して、 「あほんだら」と言ってしまうのだ。
 八軒ほどの店が並ぶ小さな商店街。昔は三十軒もの店 で賑わっていたが、大手のスーパーに圧されて年々店の 数は減っていった。一軒の惣菜屋の前でゲンさんは立ち 止まった。
 「おーい、オババ。おるかあ」
 店の中に向かってゲンさんは叫んだ。
 「はいはい、いらっしゃい」
 今年で八十になるオババが、曲がった腰を手でおさえ ながら出てきた。オババの名前は「さくら」。小さいこ ろからの幼なじみだ。というよりも、ゲンさんの姐御と 言ったほうがいい。いつもなんやかんやで世話になって きた。かれこれ七十二年のつきあいとでも言おうか。
 「ゲンさんかいな。あんたまた競馬に行っとったんか いな」
 「そや。これしか楽しみ、ないさかいな」
 「ええかげんにせんと、競馬場でデコの血管切れて死 ぬど」
 「馬見ながら死ねたら本望や」
 「あほ。ほんで、また負けたんかい」
 「ほっといてくれ。ええから、コロッケ二個とメンチ 一枚包んでくれや」
 「はいよ。いつもの晩飯やな」
 オババは手際よくコロッケを包むと、もう一つの紙皿 にキャベツとポテトサラダを山盛りに入れた。
 「野菜も食べなあかんで」
 これもいつもの「おまけ」だ。ときには買った惣菜よ りも、おまけのほうが多い。
 「いつも、すまんな」
 ゲンさんは百円玉を二つ渡しながら言った。
 「出世払いやで」
 「この歳になって、どないして出世するねん」
 「あほ。この世でちゃうわい。あの世で返せ言うとる ねん」
 オババは皺くちゃの顔で豪快に笑った。さすがのゲン さんもオババの前では頭が上がらない。それでもゲンさ んは、そんなオババの顔を見るたびに、ずっとここで暮 らしていこうと思うのだ。
 「まったく、口の減らんおばあやな」
 ゲンさんは独りごちながら、すっかりと競馬の負けな ど忘れてしまった。

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