げんさんの住処
「げんさんの住処3」
網中裕之
2月28日
翌日の朝、というより夜もまだ明けきらぬ午前四時過ぎ、外の物音でゲンさんは目を覚ました。隣の部屋からドタンバタンという音が聞こえる。
「いったい何の騒ぎや」
隣の部屋は半年ほど前から空き部屋になっている。ゲンさんは窓の外に向かって怒鳴った。
「誰や! そこにおるんわ。泥棒やったら早よう帰れよ。こんなアパートに盗むもんなんて何にもないど」
仕方なく上半身を起こしかけたとき、窓の外から誰かが部屋の中を除いているのが目に入った。これにはゲンさんも腰を抜かしそうになった。
「何やお前は!」
慌てて部屋の明かりをつけ、もう一度窓のほうを見た。よく目をこらして見ると、そこには小学生らしき男の子が立っていた。
「何やぼうず。どこの子や」
「このアパートに引っ越してきたんや」
「引っ越しって、こんな夜中にか」
「そうや、引っ越しはいつも夜中や」
そう言うと、男の子は走ってどこかに消えた。どうやら隣の部屋に入っていったようだ。
「夜中に引っ越しって、そりゃあ引っ越しやのうて、夜逃げやないかい」
とにかく訳の分からぬまま、ゲンさんは再び布団の上にゴロンと横になった。まあ、朝になれば分かるだろう。
すっかり陽が高くなった八時過ぎに、ゲンさんは目を覚ました。普段なら七時前には起きるのだが、深夜の騒動で起きることができなかった。ご飯を炊き、目玉焼きと味噌汁で簡単な朝食を済ませると、隣の様子が気になった。部屋のドアを開けて外に出ると、アパートの廊下で昨夜の男の子がしゃがんでいた。
「ぼうず、そんなとこで何しとんねん」
「別に何もしてへん」
「学校へは行かへんのか」
「知らん」
「知らんて、おかあはどこにおんねん」
「まだ、寝とる」
「朝飯は食うたんかい」
「まだや」
「子どもに朝飯を食わさんとは、どういうこっちゃ。しゃあないな、おっちゃんが食わしたるさかい、ちょっとこっちへ入れ」
ゲンさんは子どもを部屋に入れ、ご飯とお味噌汁をちゃぶ台に並べてやった。
「ちょっと待っとれ、目玉焼きもつくったるさかい」
男の子は何も言わず、ガツガツとご飯をかき込んだ。
「ぼうず、名前は」
「正太」
「いくつや」
「小学校三年」
「何人で暮らしとんねん」
「おかあと二人や、生まれてからずっと二人や」
「おとうはどないしてん」
「知らん」
まあ、夜中の四時に引っ越してくるくらいだ。何か事情があることくらいは想像がつく。このおんぼろアパートには、事情のない人間なんていないのだ。
「おかんは、働いとんのか」
「いつも夕方に出ていって、朝に帰ってくるんや」
水商売であることは間違いないだろう。まあそれはいいとしても、子どもを学校に行かさんというのはよくない。どうしたものかとゲンさんが考えているとき、隣の部屋から大きな声が聞こえた。
「正太。どこにおるねん。朝飯買うてきてや」
「いま、となりのおっちゃんの部屋や」
正太が隣の部屋に向かって叫んだ。壁が薄いので、これで充分に会話ができる。すぐにドアをノックする音が聞こえた。
「開いとるで」
ドアが開いて、三十前後の女が顔を出した。
「すんません。昨日引っ越してきた中谷と言います。子どもがお邪魔してるようで」
顔だちは悪くないのだが、いかにも水商売の匂いをさせた女だった。苦労人と遊び人の両方の顔が混ざり合ったような印象を受ける。いずれにしても、ろくな生きかたをしてこなかったのだろう。
「まあ、挨拶はあとでええ。あんたもこっちへ来て、飯でも食うたらええ。たんしたもんはないけどな」
「いやあ、そりゃあ助かります」
女はズケズケと上がり、ちゃぶ台の前に座った。
「中谷エリです。ちょっとした事情がありまして、あんな時間に引っ越したんですわ。お騒がせしました」
「まあ、事情は聞かへん。そやけどな、子どもはきちんと学校へ行かさんとあかんで」
「はあ、でも、住民票がまだないんです」
「住民票くらい市役所ですぐにもらえるやろ」
「そうなんやけど、ちょっと居場所を知られたくないから、取るわけには」
どうせ借金かなんかで、ヤクザにでも追われているのであろう。そんな連中は別に珍しくもない。借りたものを返さないのだから、エリがどうなろうが知ったこっちゃない。しかし、子どもを大人の巻き添えにするのは許せなかった。ゲンさんは腕組みをし、何とかならないものかと考え込んだ。
「しゃあないな、ちょっと聞いてみたるわ」
「ほんまですか。おおきに。ほな、私は今晩から仕事
やさかい、もう少し寝かしてもらいますわ」
エリは自分の食器も片づけずに、サッサと部屋へと帰
っていってしまった。すると正太がすばやく食器をちゃ
ぶ台から運び、台所で洗い始めた。ゲンさんは正太の後
ろ姿を見ながら「何とかしたらんとな」と呟いた。
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