その日の午後、ゲンさんは正太を連れて近所の小学校を訪れた。そこには息子の卓也と同級生だった鈴木二郎が勤めている。学校はちょうど給食が終わり、昼休みの時間だった。
「浜崎というもんやけど、鈴木先生を呼んでくれんか」
訪問の理由を伝えると、二人は校長室へ案内された。校長と挨拶を交わしているところに鈴木が入ってきた。
「いやあ浜崎さん、ごぶさたしてます。卓也は元気でやってますか」
「横浜へ来い来いちゅうて、うるそうてかなわん」
「それは心配してるんですよ。独り暮らしやと、何かと心配なんですわ」
「何を言うとるねん、ワシはここで暮らすことに決めとるんじゃ」
強がってはみたものの、鈴木のやさしさは嬉しかった。悪ガキだった鈴木が立派に先生をやっている。それを見ると、つくづく時間の流れを感じてしまう。
正太の事情を一通り説明すると、校長も快く受け入れを約束してくれた。どういう手続きをするのかは知らないが、うまくやってくれると言う。本来は住民票などが必要なのだろうが、そんなことよりも人間のことを第一に考えてくれる。ゲンさんの住む街はそういうところだった。
「ほんなら、よろしゅう頼みますわ。何の事情か知らんけど、正太がこの学校に通っているのを分からんようにしてやってや」
「まかしといて下さい。教科書はあとで僕が届けておきますから」
もう一度礼を言って、ゲンさんと正太は学校をあとにした。
「よかったな正太。明日からしっかり学校へ行くんやで」
「うん。ありがとう、おっちゃん。そやけど、また」
正太は最後まで言わずに口ごもった。
「そやけど何や」
返事をしない正太の坊主頭をなでながら、もういちど聞いた。小学校の門を出ると、正太が校舎のほうを振り返った。
「せっかくこの学校へ入れてもらっても、どうせまたすぐに変わらんとあかん。せっかく友達ができても、すぐに別れなあかん。いっつもそうや」
正太は寂しそうに呟いた。この子は何度となく、夜逃げのようにして、街を転々としてきたのだろう。そのたびに寂しい思いをしてきたに違いない。他人の事情に首を突っ込みたくなかったが、ゲンさんは腹が立ってきたあのいい加減な母親を何とかせねばと思った。
「とにかく、昼飯でも食いにいこか。おっちゃんは腹がペコペコや」
「うん。俺もペコペコや」
ゲンさんは正太のまだ小さい手をぎゅっと握った。孫の公平の小さかったころを思い出していた。
昼御飯を食べるといっても、ゲンさんの懐具合ではそんな豪勢なものは食べられない。ゲンさんは駅前のほうに向かい、立ち食いのうどん屋に入った。
「ここのきつねうどんは天下一品や、夏の暑い日に汗をかきながら食うのがまたうまいんやで」
「俺も立ち食いうどんは大好物や」
「ほうか、ほうか」
ゲンさんは店に入ると、きつねうどんを二つ注文した。ここでもゲンさんは顔なじみである。うどんを鍋に放り込みながら店主が声をかけてきた。
「おう、ゲンさん。孫づれとは珍しいなあ」
「いやあ、孫とちゃうねん。きのう隣の部屋に越してきたぼうずや。正太いう名前でな、小学三年生や。覚えとったってくれ」
「よっしゃ、ほんなら正太、おっちゃんが引っ越し祝いをやるさかいに」
店主はおにぎりを一つ正太の前に置いた。
「おおきに。俺、おにぎり大好きやねん」
正太は愛想良く笑った。ゲンさんはその笑顔が気になった。これくらいの歳の男の子は、普通なら人見知りをするものだ。誰にでも愛想がいいというのは、そうしなければ生きてこれなかったからだ。自分を守るために笑顔をつくる。なんだかとても不憫に思えた。
うどんを食べ終えると、ふたりとも汗でびっしょりになった。ゲンさんはシャツを脱ぎ、ランニング一枚になっていた。正太もTシャツに何度も顔をスリ寄せて汗を拭っていた。
「どや、うまかったやろ」
「うん、やっぱり大阪のきつねうどんは最高や」
「ずっと大阪におったんちゃうんか」
「おとといまでは神戸におった。その前にも大阪で暮らしとったけど、生まれたんは明石やねん」
「そうかあ、なんや知らんけど、あっちこっち行っとるのお」
そこで正太が黙ったので、それ以上は聞かなかった。ゲンさんは、街のあちこちを案内してやった。惣菜屋のオババのところにも連れていった。一人で何かあったときのために、できるだけ知り合いに顔を見せておこうと思ったからだ。ついでにオババの店でコロッケを買い、アパートへと戻った。ちょっとしたふたり旅のようだった。
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