kitombo.com | げんさんの住処 | 2005年3月14日 
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げんさんの住処
「げんさんの住処5」

網中裕之
3月14日

 アパートに戻ると、正太の部屋から何やらいい匂いがしていた。母親のエリが夕食の支度をしているらしい。
 「ただいま」
 正太が勢い良くドアを開けた。
 「おかえり。あんた、今までどこ行っとったん」
 「ゲンさんに、いろいろ案内してもらっとってん。学校へも連れていってもらったで」
 みんなが「ゲンさん」と呼ぶので、正太も今日のうちにそう呼ぶようになっていた。その声を聞いてエリが台所から顔をだした。
 「今朝がたはすみませんでした。何や、頭がボーッとしてましたんで、ろくに挨拶もせんと」
 「いや、それはかまへんけど」
 「それより、学校へは行けそうなんですか」
 「大丈夫や、ワシの知り合いが先生やっとってなあ、住所がバレんようにうまくしてくれるそうや」
 「ほんまに、ありがとうございます。この子の学校のことだけが心配やったんです」
 エリはゲンさんの前で正座をすると、深々と頭を下げた。そして、もう一つだけ頼みがあると言った。
 「私は晩御飯を食べたら仕事に行かなあきません。朝には帰ってきますけど、夜はこの子ひとりになってしまいます。何かあったときは、よろしく頼みます」
 そう言うとエリは、再び頭を深々と下げた。
 「よっしゃ、わかった。正太も寂しくなったら、おっちゃんの部屋へ来たらええわ」
 「うん。でも僕、大丈夫や。ひとりは慣れとるから」
 ゲンさんがいとまをしようとすると、エリがすかさず引き止めた。
 「今日のお礼といっては何ですけど、一緒に夕飯、食べていってください。たいしたもんはありませんけど」
 ちょっと疲れたので早く部屋で横になりたかったが、正太が袖を引っ張るので、夕飯をよばれることにした。
 「ほな、そうさせてもらおか。そやけど、いつもは気い使わんでええで。あんたのところの家計もたいへんやろ」  二人も三人も一緒やと言ってエリは笑った。部屋の中に は小さなタンスが一つ。台所の近くにはカラーボックスが 置かれてあり、食器がきれいに整頓されていた。質素な生 活だが、小奇麗な部屋だった。
 「昨日越してきたばかりやのに、よう片づいとるなあ。 たいしたもんや」
 「物が何にもないさかい」
 どういう理由で夜逃げしてきたのかは知らないが、エリ がいい加減な生活を送っていないことはよく分かる。夜の 仕事も、たぶん好きでやっているわけではなさそうだ。ゲ ンさんはホッとすると同時に、妙な色眼鏡でエリを見てい たことを恥じた。
 食事が終わると、エリは身支度を始めた。ゲンさんは正 太を風呂屋に連れていくことにした。
 「何から何まですんません。正太、おかあちゃんは仕事 に行くさかい、布団は自分で敷いて寝るんやで。正太が目 を覚ますまでには帰ってくるから」
 エリは正太の首に鍵を掛けながら言った。
 「わかった。おかあちゃんも、あんまり飲み過ぎんよう にな」
 おそらく、この親子の会話は幾度となく繰り返されてき たのだろう。まるでお決まりの文句のように、二人の間で スムーズに交わされていた。
 ゲンさんの風呂おけに二人分の手拭いを入れ、風呂屋へ と向かった。
 「前の家には、風呂があったんか」
 「うん。トイレの横に小さな風呂がついとった」
 「そうかあ、これからはたいへんやな。風呂代もバカに ならへんからな」
 「別に風呂に入らんかて死なへん。夏は水を浴びたらえ えんや」
 「そらあ、あかん。毎日学校で汗をかくんやから、子ど もは毎日入らんとあかんのや」
 小学三年にもなれば、自分の家がどういう状況かはわか るだろう。それがゲンさんにはせつなかった。何とか正太 を毎日風呂に入れてやりたいとおもった。
 風呂屋を経営しているのは、ゲンさんの幼なじみだ。ケ チで有名な男だが、ゲンさんはその男に貸しがあった。浮 気がかみさんにバレそうになったとき、アリバイ作りに協 力してやったのだ。そういった不誠実さが大嫌いなゲンさ んだが、どうにも泣きつかれて、その男のために一度だけ 嘘をついたことがあったのだ。
 「よっしゃ。あのときの貸しを、いま返してもらおか」
 ほとんど脅しのようではあったが、今後一切、正太から は風呂代を取らないと約束させたのである。
 「これで毎日風呂に入れるで。おっちゃんが話をつけと いたから、いつ行ってもタダや。遠慮なんかせんと、一日 に三回でも四回でも入ったれよ」
 「ほんまに、ええのん」
 「子どもは、そんなこと気にするもんやない」
 「僕、むちゃくちゃ嬉しいわ。ほんまは、風呂がないア パートでメゲとってん」
 「よかったなあ」
 ゲンさんは、自分のことのように嬉しくなった。
 正太が部屋に入るのを見届けると、ゲンさんはよっこい しょと部屋の中にはいった。一日のうちにいろんなことが あったような気がする。さすがに少し疲れたようだ。布団 を敷いて、その上に座って缶ビールを飲んだ。
 開け放たれた窓から入ってくる風が、少し涼しくなった ような気がした。
 「正太のおかげで、この部屋の地球温暖化がすこしはよ うなったんかのう」
 心地よい疲れの中で、ゲンさんは眠りに落ちていった。

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