夕方の六時過ぎに夕飯を済ませると、正太は毎日のようにゲンさんの部屋にやってきた。ゲンさんが晩酌をしている横にちょこんと座り、宿題をしたり本を呼んだりしている。しっかりしているとはいえ、まだ小学三年生だ。夜中にひとりぼっちでいるのは、きっと寂しいのだろう。ときどきゲンさんが「今夜はおっちゃんと一緒に寝るか」と聞くと、いかにもうれしそうに「うん」と答える。事情は知らないが、何とかエリが昼間の仕事に就けないだろうかとゲンさんは考えていた。
そんな生活がしばらく続いたある夜、隣の部屋のドアを誰かがドンドンと叩く音がした。正太はその瞬間にビクッと体を震わせた。
「誰やろ、いまごろ」
正太が越してきてから一ヵ月ほどが経つが、訪ねてきた人間はひとりもいない。ゲンさんはドアを開けて廊下に出た。そこにはきちんとスーツを着た、三十過ぎの男が立っていた。
「あんたは誰や」
ゲンさんが声をかけると、男は気の弱そうな目をしばしばさせた。
「この部屋に、女の人と男の子が住んでるはずなんですけど、知りませんか」
エリと正太は、この男から逃げて来たに違いない。ゲンさんは直観的にそう感じた。一見やさしそうだが、蛇のような目がそう思わせたのである。
「いやあ、知らんなあ。この辺でそんな親子は見たことないで」
ゲンさんは咄嗟に、口からでまかせを言った。
「そうですか。ほんなら、また出直してきます」
「なんやったら、伝言でも預かっとこか」
「いや、結構ですわ。日曜の昼にでもまた来ます」
ゲンさんは、わざと無愛想にドアをバタンと閉めた。男はなかなかアパートから去ろうとせず、窓の隙間からひとしきり部屋の様子を伺っていた。
やっと男がいなくなって正太のほうを見やると、膝をかかえて微かに震えていた。
「どないしたんや正太。あの男を知っとるんか」
「おれのお父さんや」
正太が蚊の鳴くような声で答えた。
「なんやて。どういうこっちゃ」
「あいつは、いつもお母さんを殴りよる。腹を蹴られて救急車で運ばれたこともある。お母さんの体は、あいつのせいで痣だらけや」
「そうか。そういうことやったんか。ほんで二人で逃げてきたっちゅうわけか」
「絶対に、あいつと一緒になんか暮らしとうない」
「大丈夫や、おっちゃんが守ったる」
それ以上のことは聞かなかった。詳しくはエリが帰ってきてから聞けばいい。正太に辛いことを思い出させたくなかった。
その夜、正太はゲンさんの布団にもぐり込んで眠った。ゲンさんは一晩中、正太の背中をさすってやった。
翌朝、エリが勤めから戻り、正太が学校へ行ったころをみはからって、ゲンさんは隣の部屋を訪ねた。昨夜の男のことを話すと、エリの顔も正太と同じように引きつった。
「そうですか。やっぱり追いかけてきましたか」
暗い表情でエリが話し始めた。
エリは明石で育ち、地元の高校を卒業後、神戸のデパートで働いていた。デパートといっても華やかな売り場ではなく、地下食料品街の調理担当だった。夫も同じく明石の出身。大学を卒業すると、三宮にある不動産会社に就職。半ば見合いのような形で結婚したのだという。
ほどなく正太が生まれ、実家近くのアパートで慎ましく暮らしていた。夫の暴力が始まったのはそのころからだった。とにかく我が儘な男で、少しでも気に食わないことがあれば、すぐにエリに手を上げた。正太のためを思い、必死になって我慢した。
しかしある夜、エリが新しい洋服を黙って買ったのを知り、夫は激怒した。腹を蹴られて、エリは意識を失った。それでも夫は顔面を殴り続けた。救急車で運ばれる途中、夫の声が聞こえた。
「高いところの食器を取ろうとして、椅子から落ちよったんですわ。おそらく机にでも腹をぶつけたんでしょうな。顔が少し腫れてるのは、意識を取り戻させようとして、私がピシャピシャと叩いたんです。まったく世話のやける女ですわ」
うっすらとした意識のなかで、エリはこの男から逃げなくてはと思った。正太も夫を怖がって寄りつこうとはしなかった。
翌日に退院すると、エリは正太を連れて家を出た。そして二人で生活していくには、夜の勤めしか方法はなかった。
ゲンさんはエリの話をじっと聞いていた。
「何で、実家に逃げへんかったんや」
「夫は一見やさしそうに見えるから、父も母も本気で信用してくれませんでしたんや。それに、とにかく同じ街にいるのも怖かったんです」
「まだ正式に離婚はしてへんのか」
「させてくれません。別れるんやったら、正太をよこせと言うんです。でも、正太が可愛いからやない。私への嫌がらせなんです」
「それにしても、ようここが分かったなあ」
「そりゃあ、不動産屋ですもん。調べよう思うたら簡単でしょう」
なるほどとゲンさんは膝を叩いた。確かエリの部屋には表札は出してないはずだ。それでも母子の二人暮らしということで当たれば、おおよその見当はつくのかもしれない。それにしても執念深い男であることには違いがない。やっかいなことだとゲンさんは思った。
「とりあえずは、今度の日曜に来ると言うとったで。今日は金曜日やさかい、あさってまでに何とかせんとあかんな」
「ご迷惑やと思いますが、なんとか力を貸してください。お願いします」
頼まれなくても、ゲンさんは何とかするつもりだった。夫婦のことに首を突っ込むつもりはさらさらない。しかし、昨晩の正太の怯えた姿を見ると、これは放っておくわけにはいかない。いつのまにか正太の存在は、ゲンさんの心の中でも大きくなっていたのである。
*