エリには、とりあえず寝ておくようにと言った。今夜も仕事に行かなければならないからだ。明日中には何とか算段を整えるから安心しろと約束した。男は日曜に来ると言っていたが、明日にでも来ないとも限らない。そう考えると、今夜からでも二人をアパートの帰らすのは心配だった。
こんな時に、やっぱり頼りになるのは惣菜屋のオババである。ゲンさんは早速、オババの店へと向かった。
「おーい、オババおるか」
オババは店の奥で惣菜の調理をしていた。
「ゲンさんか、こっちへ入っておいでや」
調理場ではオババと娘の明子が、何種類もの惣菜を手際よく調理していた。明子夫婦はいまだに子宝に恵まれず、サラリーマンをしている夫と三人で暮らしている。明子はとうに四十を越えているが、まだ子供を諦めたわけではない。「明子の生んだ子の顔を見るまでは、死ぬわけにはいかん」というのがオババの口癖だ。
「こんな朝早ようから、いったい何の騒ぎや」
「実はな、ちょっと頼みがあるんや」
「またかいな、まったく小さいころから、何にも変わってへんなあ」
「すまんと思とるがな」
ゲンさんは昨夜の出来事や、エリと正太の事情を詳しく話した。
「というわけや。どないしたらええんやろ」
いかにも困ったという顔をゲンさんがしていると、オババがニッと笑った。
「なんや、そんなことかいな。簡単なこっちゃ」
「なんぞ、ええ案があるんか」
「とりあえず二人は、今日から一週間くらい、うちの二階で寝泊まりしたらええ。それから明子、おまえはクリーニング屋の悪ガキをさらってこい」
「あの悪ガキさらって、どないすんの」
急に言われた明子が驚いて聞いた。
「二人が母子ということにして、日曜日はその部屋におるんや。確かに母子が住んどるけど、人違いやと思わせるんや」
「よっしゃ、わかったで。何やら面白そうやな」
明子も快く引き受けてくれた。まあ、オババが言いだしたことには逆らうこともできないだろうが。
「それにしても、さすがオババやなあ。こういう悪知恵は天下一品やな」
「あたりまえや。悪知恵が働かんで、大阪で生きていけるかい」
なるほどとゲンさんは感心した。
「それよりゲン。おまえは不動産屋へすぐに行け。不動産屋のジジイに口止めしとかんとあかん。あの欲張りジジイは、何か物もろたらほんまのこと喋りよるさかいにな。もしバラしたら、この街で生きていかれへんと言うとけ」
ひさしぶりにオババに「ゲン」と呼び捨てにされ、ふと小さいころに戻ったような気になった。困ったことが起きると、必ず姐御が解決してくれたものだ。
惣菜屋を飛び出すと、ゲンさんは言われたままに不動産屋に飛び込んだ。ゲンさんとオババの頼みとなれば、さすがの強欲ジジイも引き受けざるをえない。この二人を敵に回せば、冗談ではなく、本当にこの街で暮らせなくなるのである。
駅前の立ち食いそば屋できつねうどんをかき込むと、ゲンさんは急いでアパートに戻った。エリは当然寝ていると思ったが、ゲンさんがドアを開ける音を聞きつけてすぐにやって来た。どうやら一睡もしていないらしい。
「どないしたんや。寝とかんと仕事きついで」
「今日は休みにしてもらいました。何や、嫌な予感がしますねん」
「嫌な予感てどういうこっちゃ」
「日曜に来るて言うてたそうやけど、たぶん嘘やと思います。ゲンさんのことも疑うてると思う。妙に感の鋭いところのある男やさかい」
「もしかしたら今夜も来るかもしれんな」
「はい。私もそう思うんです」
「よっしゃ。そんなら、とにかく急がなあかん。段取りは整ってるさかい」
エリは部屋に戻ると、すぐに身の回りのものを鞄に詰め込んだ。とくに正太の学用品はすべて持ち出すことにした。正太の持ち物にはすべて名前が書いてある。万一それが男の目に触れないとも限らないからだ。家財道具はすべて家を出た後に買ったものだから心配ない。とにかく二人を特定するものさえなければいいのである。
エリが大きな鞄を二つ持ち、ゲンさんがダンボールを一箱抱えて、オババのいる惣菜屋へと向かった。
「オババ。エリさんを連れてきたで。心配やさかい、今夜から世話したってくれ」
「はじめまして、中谷エリと申します。無理なお願いで、ほんまにすみません」
エリは深々と頭を下げた。仕事へ行くときとは違い、全く化粧気のないエリの姿は、とても質素で健全な女性に映った。この子は夜の仕事をする人間やないとゲンさんは思った。
*