明子が正太を学校まで迎えに行き、そのまま惣菜屋まで連れて帰ってきた。早い時間に風呂屋に行かせると、その後は二階の部屋でじっとしてるように言い聞かせた。へたに街をうろついていると、ばったり男に出くわせないともかぎらない。
夕飯を済ませると、明子はアパートの部屋にいることにした。気のいいクリーニング屋の夫婦は、二つ返事で小学四年になる息子を貸してくれた。
「こんな子で役に立つんやったら、なんぼでも使うてやって。何なら一週間ほど預かってくれたら助かるわ」
息子は少々ふくれっ面をしていたが、ケーキを買ってやるといわれてホイホイとアパートまでついてきた。二三日は明子とアパートに泊まることになっている。
その日の夜八時過ぎ、案の定男がやってきた。隣の部屋をノックする音が聞こえた。「誰が住んでいるのか知らない」と言った手前、ゲンさんが顔を出すわけにはいかない。ゲンさんは注意深く隣の様子を伺っていた。万一のときは出て行くつもりだった。
やがて明子がドアを開ける音が聞こえた。
「夜分、すみません。ここは中谷さんのお宅と違いますか」
男の声が聞こえた。
「はあ? ちゃいますけど」
「おかしいなあ、不動産屋に聞いたんやけどなあ」
男が疑い深そうな声を出した。
「うちは中村や。中谷とちゃうで」
「あのう、お子さんと二人暮らしですよね」
「そうや。それがどないしてん」
「いやあ。ここにはいつからお住まいですか」
「なんや、あんたは。いつから住んでようが、あんたに関係あらへんやろ。あんた、警察の人か」
明子の剣幕に男がタジタジになっているのが分かる。
「いやあ、ちょっと知り合いを探してるもんで」
「とにかくウチらは半年前からここにおるんや。あの頭のボケた不動産屋が何と言おうと、そんなことは知るかい」
「あの不動産屋さん、頭がボケとるんですか」
「そや。有名や。このアパートの管理かていい加減なもんや。家賃さえきちんと払えば、やくざが住もうが、不法滞在者がいようが、あのジジイには関係ないんや」
「そうなんですか」
「あんたの探してる人かて、いつまでおったか分からん。ウチかて偽名で入居しとるんや。名前なんて適当なもんやで」
「でも、確かに」
男が言いかけた時に、明子が大声で怒鳴った。
「うるさいなあ。あまりしつこかったら人を呼ぶで。隣に住んどる人は元やくざや。ただでは帰られへんで」
明子がドアをバタンと閉める音がアパート中に響いた。
ゲンさんは台所の窓の隙間から、そっと外の様子を伺った。男はしばらく佇んでいたが、それから二階へと上がっていった。どうやら二階の様子も見にいくらしい。二階の四部屋はすべて男のやもめ暮らしだ。外から見ただけでも一目瞭然で分かる。
三十分ほどまたウロウロすると、男は退散していった。それから間もなくして、明子がゲンさんの部屋にやってきた。
「あんなんで、よかったんか」
「上出来や。あれ以上の芝居はないで」
「そやけどあいつ、気味が悪いわ。部屋の中をチラチラ覗いとったわ」
「やっぱり、どっかで疑っとるんやろ」
「そやけど、クリーニング屋のぼうずの顔見た時は、ハッとしとったで」
「まあ、正太と間違えることはないやろ。それに子供にまで芝居させるとは思うとらんやろ。まあ、第一関門クリアということや」
「あの男、きっともう一回、不動産屋へ行きよるで。何となく私はそう思うわ」
なるほどとゲンさんは思った。半年前まで誰が住んでいたのか。それを確認しに行くかもしれない。
「わかった。明日の朝一番で不動産屋へ行ってくるわ。あのジジイにボケたふりやらさんとあかんな」
結局その夜は明子とふたり、夜更けまで酒盛りになってしまった。
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