kitombo.com | げんさんの住処 | 2005年4月11日 
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げんさんの住処
「げんさんの住処9」

網中裕之
4月11日

 明子の感はみごとに当たった。翌日の土曜日の昼過ぎに、エリの夫は不動産屋に現れた。朝のうちにゲンさんが手を打っておいたので、何とかバレずに済んだようだった。中谷エリは確かに契約には訪れたが、結局は引っ越してこなかったと説明したらしい。それでも男はしつこく聞き出そうとしたらしいが、不動産屋のジジイがボケたふりを通したために、ついには諦めて帰っていったということだ。
 「よかったなあ。これで一安心や」
 「ほんとうに、助かりました」
 その夜は惣菜屋の二階にみんなが集まり、ささやかなお祝いとなった。正太の顔からも不安気な表情はすっかり消えていた。オババはすっかり正太が気に入ったようで、あれやこれやと世話を焼いていた。ゲンさんは、ちょっぴり正太を取られたような気持ちになっていた。
 「それよりエリさん。あんた、いつまで夜の仕事を続けるつもりや」
 オババが急に顔をエリに向けた。
 「何の資格もありませんよってに、昼の仕事は無理やと思うんです」
 「正太はまだ子供や、母親が一番恋しいときなんや」
 「それは十分にわかってます」
 オババは、その場のいるみんなに宣言するように言った。
 「エリさん。あんた、うちの店で働きなはれ」
 この言葉にはさすがの明子も驚いた。
 「何言うてんの、おかあちゃん。うちに人を雇うような余裕はないで」
 「ワシはもう歳や。そろそろ料理を作るのもしんどいねん。これからはあんたとエリさんで店をやったらええ。それにエリさんはデパートの調理場で働いとったんやで、うちではできんような惣菜もよう知っとるやろ」
 「そんなあ、そこまでしてもろたらバチが当たります」
 エリも両手と振ってオババを見た。
 「この店はワシの店や。ワシが社長や。この店のことは自分で決めるんやから、心配せんでええ」
 一度言いだしたら、誰が何と言おうと引き下がらない。そんなオババの性格を明子は良く知っている。
 「分かった。ほんならエリさん。よろしく頼みます。新しい惣菜をいっぱい考えて、二人で大儲けしましょ」
 サッパリとした明子の性格も、オババ譲りだろう。
 エリは礼を言いながら泣いていた。やっと落ちつくところが見つかったのだ。その背中に向かってオババが声をかけた。
 「あんたのためやない。たしかにあんたは亭主のことでつらい思いをしたやろ。でもな、それはあんたが選んだ人生や。大切なんは、人生を選べん正太のことや。親のせいで子供が悲しい思いをしたり、寂しい思いをすることが、ワシは一番つらいんや。正太のことは大事にしたらんとあかん。それが大人の役目ちゃうか」
 その言葉にゲンさんも目頭を熱くしていた。ふと、横浜にいる息子と孫のことを思い出していた。

 ゲンさんの回りには、また平穏な日々が戻っていた。惣菜屋はエリが働きだしてから種類が増え、かなりの繁盛をみせるようになった。正太は母親がいることで、のびのびとした生活を送っているようだ。
 オババはことのほか正太を可愛がり、まるで自分の孫のように思っている。それでも心根のやさしい正太は、一日に一回は必ずゲンさんのようすを見に来てくれる。
 冬休みに入ってから数日が経ったころ、息子の拓也が急に訪ねてきた。
 「なんや急に、どないしたんや」
 「ちょっと大阪に出張で寄ってみたんや。どうや、身体は大丈夫か」
 「お前に心配かけるほど、歳は取ってないわ」
 憎まれ口をききながらも、ゲンさんは息子の気遣いが嬉しかった。
 「今年の正月やけどな、横浜へ来て一緒に過ごさへんか。公平も会いたがってるし」
 「生まれてこのかた、大阪以外で正月を迎えたことはない。あんまり変わったことしたら、それこそ死んでまうかもしれへんぞ」
 「なにを言うとるねん。ともかくまた電話するから、今年は横浜へ来る算段しといてくれ」
 拓也はそれだけ言うと、慌ただしく帰っていった。横浜までの交通費だと言って、封筒に五万円を入れて置いていった。
 妻が死んでから、正月はいつも一人だった。大晦日の夜にはオババが作ってくれたおせち料理を一人で食べ、一日の朝には近くの神社に参る。ただそれだけのことを繰り返してきた。
 「今年は、息子の世話になるかのう」
 ゲンさんは妻の位牌に向かって呟いた。
 一人が寂しいと思ったことはない。家族はやがてバラバラになり、人間最後は一人になる。そういうものだと思い続けてきた。でも、正太を見ていると、何だか家族が欲しくなる。きっと、若かったころの自分の家庭を思い出してしまうのだろう。
 「よっしゃ。今年は横浜へ行ったろか」
 いかにも恩きせがましく言うと、ゲンさんは布団の中にもぐり込んだ。孫への土産は何にしようか。どんな恰好で行こうか。そんなことを考えていると、自然と気持ちがウキウキしてきた。
 年末から正月にかけて、都合十日間ほどをゲンさんは横浜の息子の家で過ごした。久しぶりに温かい雑煮を食べた。八畳ほどの和室。とても日当たりの良い部屋を、息子はゲンさんのために用意しておいてくれた。
 「おじいちゃんも、ここで一緒に暮らそうよ。お父さんはいつも、おじいちゃんの心配ばかりしてるんだから」
 孫の公平もそう言ってくれる。随分としっかりしてきたものだ。
 「そやなあ。まあ、考えとくわ」
 ゲンさんはそう言いながらも、そろそろ意地を張るのも潮時かなと思っていた。

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