kitombo.com | げんさんの住処 | 2005年4月18日 
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げんさんの住処
「げんさんの住処10」

網中裕之
4月18日

 大阪の街に戻ってから数日後、ゲンさんは梅田にある阪急百貨店へと出掛けた。横浜で世話になったお礼に、千枚漬けでも送ってやろうと思った。梅田のオフィス街はすっかり正月気分から抜けていた。
 「まったく味もそっけもない街になってしもたなあ。昔はえべっさんの頃までは酒を飲んでたもんやけど」
 えべっさんとは商売の神様である恵比寿神社の祭りのことである。毎年一月十五日には、盛大な祭りが神社で催される。そんな風情が大阪の街からもだんだんと消えつつあった。
 阪急百貨店の中は、平日のせいか比較的空いていた。地下の売り場に下りていくと、正面に有名な千枚漬けの店が見えた。ゲンさんが品定めをしていると、若い女の店員が近づいてきた。
 「当店の千枚漬けはとても味がよろしいですよ」
 「そんなこと言われんでも知っとるわい」
 百貨店独特の格式ばった物言いが、ゲンさんは苦手だった。
 「それより、この五千円の詰め合わせやけど、なんぼのしてくれるんや」
 「なんぼと言われましても、五千円は五千円です」
 「一円たりともまけへんちゅうんか」
 「はい、当店では値引きはしておりませんので」
 「なに。それが大阪で通用すると思うとるんか」
 店員は明らかに顔をしかめた。百貨店が値引きしないくらいはゲンさんでも知っている。ちょっと店員をからかってやろうと思っただけだ。なのにしかめっ面をされたのでは、とても買う気にはなれない。やっぱり地元の商店街で何かを買おうと考え直した。
 「まったく最近の大阪の若い者は、ボケとツッコミのやりかたも知りよらへん」
 ゲンさんは独りごちながら一階への階段を上りかけた。エスカレーターが見つからなかったので、まあ健康のためと思い階段を使うことにした。
 その時、ゲンさんの足元でグキッといういやな音がした。
 「アイタタッ」
 ゲンさんはその場にうずくまった。どうやら足をひねってしまったらしい。立ち上がろうとしても、とても立てそうにない。
 「誰か来てくれ。助けてくれ」
 ゲンさんは売り場のほうに向かって叫んだ。
 「どうしたんですか」
 慌てて警備員と店員が駆けつけてきた。二人がかりで起こそうとしたが、ゲンさんがあまり痛がるので、とうとう救急車が駆けつける騒ぎとなってしまった。
 ゲンさんは近くの総合病院に運び込まれた。レントゲンを撮った結果、骨には異常はなかったが、かなり重い捻挫をしていることが医師から聞かされた。
 「とにかく、二ヵ月ほどは自宅で安静にしていてください。無理をすると、歩けなくなりますよ」
 ギプスの石膏を固めながら看護婦が言った。
 治療が終わって受け付けへ行くと、エリが迎えにきてくれていた。
 「ゲンさん。どうしたんですか」
 「いやあ、大したことはないんや。ちょっと躓いてしもてな。我ながら情けない話や」
 「救急車で運ばれたって聞いて、もうびっくりしました。とりあえず私が駆けつけて来たんです」
 「かたじけない」
 少しばかりしょんぼりとしたゲンさんをタクシーに乗せ、エリはアパートまで連れて帰った。部屋の前では正太とオババが待っていてくれた。エリが布団を敷いてくれて、その上に寝かされた。
 「ええ歳こいて、梅田の百貨店みたいな所へ行くさかいや」
 オババが悪態をついた。いつもなら言われっぱなしにはしないが、さすがのゲンさんも今日は弱気になっていた。
 「そやなあ。もうワシも一人で出掛けるときは、気いつけんとあかんなあ」
 いつもとは違う殊勝なゲンさんの言葉に、三人は思わず顔を見合わせた。
 「とりあえず、にぎり飯と惣菜を置いとくから、これを食うて早く寝るこっちゃ」
 オババはそう言うと、腰をさすりながら帰っていった。
 それから二週間ほどは、ゲンさんは歩くことすらできなかった。部屋の中でもトイレに行くのがやっと。もちろん風呂屋にも行けず、タオルを絞っては身体を拭くという有り様だった。
 朝はエリ、昼はオババ、そして夕方には正太が食事を運んできてくれる。何とも情けない話だが、みんなには感謝せざるを得なかった。
 「すまんな正太」
 ゲンさんはお茶を沸かしてくれている正太に声をかけた。
 「大したことあらへん。おっちゃんに助けられたことに比べたら、こんなことお安い御用や」
 正太はニッコリと笑った。昨年の夏にこの街にやってきてから、もう半年になる。この年齢の子供は、日々しっかりと成長していく。正太のその成長が、ゲンさんにはとても眩しく見えた。

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