大阪の街に戻ってから数日後、ゲンさんは梅田にある阪急百貨店へと出掛けた。横浜で世話になったお礼に、千枚漬けでも送ってやろうと思った。梅田のオフィス街はすっかり正月気分から抜けていた。
「まったく味もそっけもない街になってしもたなあ。昔はえべっさんの頃までは酒を飲んでたもんやけど」
えべっさんとは商売の神様である恵比寿神社の祭りのことである。毎年一月十五日には、盛大な祭りが神社で催される。そんな風情が大阪の街からもだんだんと消えつつあった。
阪急百貨店の中は、平日のせいか比較的空いていた。地下の売り場に下りていくと、正面に有名な千枚漬けの店が見えた。ゲンさんが品定めをしていると、若い女の店員が近づいてきた。
「当店の千枚漬けはとても味がよろしいですよ」
「そんなこと言われんでも知っとるわい」
百貨店独特の格式ばった物言いが、ゲンさんは苦手だった。
「それより、この五千円の詰め合わせやけど、なんぼのしてくれるんや」
「なんぼと言われましても、五千円は五千円です」
「一円たりともまけへんちゅうんか」
「はい、当店では値引きはしておりませんので」
「なに。それが大阪で通用すると思うとるんか」
店員は明らかに顔をしかめた。百貨店が値引きしないくらいはゲンさんでも知っている。ちょっと店員をからかってやろうと思っただけだ。なのにしかめっ面をされたのでは、とても買う気にはなれない。やっぱり地元の商店街で何かを買おうと考え直した。
「まったく最近の大阪の若い者は、ボケとツッコミのやりかたも知りよらへん」
ゲンさんは独りごちながら一階への階段を上りかけた。エスカレーターが見つからなかったので、まあ健康のためと思い階段を使うことにした。
その時、ゲンさんの足元でグキッといういやな音がした。
「アイタタッ」
ゲンさんはその場にうずくまった。どうやら足をひねってしまったらしい。立ち上がろうとしても、とても立てそうにない。
「誰か来てくれ。助けてくれ」
ゲンさんは売り場のほうに向かって叫んだ。
「どうしたんですか」
慌てて警備員と店員が駆けつけてきた。二人がかりで起こそうとしたが、ゲンさんがあまり痛がるので、とうとう救急車が駆けつける騒ぎとなってしまった。
ゲンさんは近くの総合病院に運び込まれた。レントゲンを撮った結果、骨には異常はなかったが、かなり重い捻挫をしていることが医師から聞かされた。
「とにかく、二ヵ月ほどは自宅で安静にしていてください。無理をすると、歩けなくなりますよ」
ギプスの石膏を固めながら看護婦が言った。
治療が終わって受け付けへ行くと、エリが迎えにきてくれていた。
「ゲンさん。どうしたんですか」
「いやあ、大したことはないんや。ちょっと躓いてしもてな。我ながら情けない話や」
「救急車で運ばれたって聞いて、もうびっくりしました。とりあえず私が駆けつけて来たんです」
「かたじけない」
少しばかりしょんぼりとしたゲンさんをタクシーに乗せ、エリはアパートまで連れて帰った。部屋の前では正太とオババが待っていてくれた。エリが布団を敷いてくれて、その上に寝かされた。
「ええ歳こいて、梅田の百貨店みたいな所へ行くさかいや」
オババが悪態をついた。いつもなら言われっぱなしにはしないが、さすがのゲンさんも今日は弱気になっていた。
「そやなあ。もうワシも一人で出掛けるときは、気いつけんとあかんなあ」
いつもとは違う殊勝なゲンさんの言葉に、三人は思わず顔を見合わせた。
「とりあえず、にぎり飯と惣菜を置いとくから、これを食うて早く寝るこっちゃ」
オババはそう言うと、腰をさすりながら帰っていった。
それから二週間ほどは、ゲンさんは歩くことすらできなかった。部屋の中でもトイレに行くのがやっと。もちろん風呂屋にも行けず、タオルを絞っては身体を拭くという有り様だった。
朝はエリ、昼はオババ、そして夕方には正太が食事を運んできてくれる。何とも情けない話だが、みんなには感謝せざるを得なかった。
「すまんな正太」
ゲンさんはお茶を沸かしてくれている正太に声をかけた。
「大したことあらへん。おっちゃんに助けられたことに比べたら、こんなことお安い御用や」
正太はニッコリと笑った。昨年の夏にこの街にやってきてから、もう半年になる。この年齢の子供は、日々しっかりと成長していく。正太のその成長が、ゲンさんにはとても眩しく見えた。
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