げんさんの住処
「げんさんの住処12」
網中裕之
5月2日
エリと正太が惣菜屋に引っ越すと、ゲンさんの隣の部屋には誰もいなくなった。足の怪我はだいぶ良くはなったが、ゲンさんは自分の部屋に閉じこもることが多くなった。二ヵ月ほど身体を動かさなかったせいか、すっかり足腰が弱った気がする。
「やっぱり、このへんが限界やな」
ゲンさんは誰にともなく呟いた。
オババが死に、エリと正太も落ちついた。きっとこれからも二人でがんばって生きていけるだろう。今度は自分のことを考えなければいけない。大阪で生まれ、大阪で死ぬと決めていた。この街が終の住処だと信じて疑わなかった。
「人生はうまく行かんもんや。そやけど、死ぬ場所くらい自分で決めたかったなあ」
この街で静かに死んでいったオババのことが、何だか羨ましくも思えた。
翌日、ゲンさんは息子の拓也に電話をかけた。
「あのなあ、お前のところに厄介になることにするわ」
「そうか、やっと決心してくれたんか」
息子はホッとしたような声を出した。余程気にかけていてくれたのだろう。有り難いことだと、ゲンさんは初めて感謝の気持ちが沸いてきた。まあこれも、歳をとったということなのであろう。
横浜に引っ越すのは、三月の末ということに決まった。学校が春休みのときのほうが、何かと便利だろうということだ。孫の拓也も手伝ってくれるという。
引っ越しの準備を手伝いにくると言ったが、ゲンさんはそれを断った。慌ただしく越して行くのは嫌だった。一人でこの街に別れを言い、一人で去って行きたかったからだ。それに運ぶものなどほとんどない。家具は処分すればいいし、電化製品ももう必要がなくなる。妻と揃いで買った茶碗さえあれば、それだけでいい。段ボール箱が三つもあれば事足りるだろう。
横浜行きを決めた翌日、ゲンさんは惣菜屋に行った。オババの仏壇の前に座り、報告をした。
「なあオババ。ワシはこの街を離れるわ。この街で死にたいと思うとったけど、どうやらそれは無理そうや。もう二度と来ることはないかもしらん。寂しいけど仕方のないこっちゃ」
オババに向かって言うというよりは、自分に言い聞かすような口調だった。
「寂しくなるなあ。オババが死んで、ゲンさんもおらんようになって。なんやこの街やなくなるみたいな気がするわ」
明子がしんみりと言った。エリも突然のことで、何と言ったらよいのか分からないみたいだった。
「何よりも、正太が寂しがります」
小さな声でエリが言った。
「正太には、あんたから言うといてくれ。ワシも正太と別れるんが一番つらいんや」
「わかりました。今晩のうちに言うときます」
「まあ、行くまでにまだ十日ほどあるさかい、休みの日にどこかへ連れて行ったると言うといてくれ」
その日ゲンさんは、商店街の顔なじみを何軒か回った。みな一様に驚きを隠さなかった。横浜に息子がいることは皆知っているが、まさかゲンさんが行くとは思ってもいなかった。なかには「うちで、一緒に暮らしたらええがな」と言ってくれる友人もいた。ありがたいことだとつくづく思った。
日にちが経つのが、とても早く感じた。
いよいよ引っ越しを明日に控えた日、ゲンさんは墓参り出掛けることにした。ちょうどドアを開けたとき、正太がやってきた。
「おっちゃん、どこへ行くんや」
「ばあさんの墓参りに行くところや」
「ぼくもついていったるわ」
「そうか。今日は学校は休みか。ほな一緒に行こか」
代々の墓は、一つ向こうの駅の寺にある。いつもは電車に乗ってしまうのだが、この日は歩いて行こうと思っていた。もう、このへんの風景も見納めだ。
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