kitombo.com | 今週の疑問 | 2003年7月7日
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今週の疑問
「南半球からの視点(11)
敗者のいない経済社会」

(1989年7月1日『実業の日本』掲載)

大地舜
7月7日


 若いころからアジアが好きで、タイ王国だけでもすでに一〇〇回は訪問している。若いころからタイの学者の卵たちと、「アジアの思想」で、欧米の資本主義を修整しなければいけないなどと、熱く語り合ってきた。
 だが、問題はもっと深いところにあるようだ、と思い始めている。人間という存在の原罪みたいなものだ。神道的資本主義、仏教的資本主義、キリスト教的資本主義、共産主義的資本主義などいろいろあるが、いずれも矛盾を含んだ存在だ。豊かさを求めるのは人間の本性で、それは許される。貧困は最悪だ。お金のために子どもを売るような世界にはしたくない。だが、人をけ落とさないと豊かになれないのが人間世界の現実。
 やっぱり、輪廻転生があると思うほか、人生に救いはないようだ。

アジア型の経済発展
 バンコックの街はいつ訪れても真夏である。それでも、ここチュラロンコン王立大学の二階の会議室は風が通って涼しい。窓から見える常夏の青空には、白い雲がまぶしく光っている。
「アジアの人々を豊かにすることが、日本の国の仕事だと思う。人口の多いアジアの国ぐにが豊かになれば、日本にとっても、米国以外の市場が大きくなってプラスだし……」
「それは日本政府の考え方ですか?」
「いやー、私個人の考えに過ぎないけど……」
「そお…-残念ね、日本政府の考え方だったらいいのにね……」
 チュラロンコン大学の経済学部助教授と、女性講師は、そういって顔を曇らせた。
 こんな会話のあった数力月後、タイ国では日貨排斥連動の大嵐が吹き荒れた。
 当時タイ国には腐敗した軍事政権が君臨しており、経済進出した日本企業も、多かれ少なかれその恩恵に与っていた。
 日貨排斥運動の真の標的は、腐敗した軍事政権であったが、しかし、日本人に対する不信感にも、根強いものがあった。
 そして、激昂する高校生、大学生を背後から扇動し、精神的・理論的支柱となったのは、タマサート、チュラロンコン両国立大学の若い助教授、講師たちであった。
「シュン、同じアジア人なのにタイ国の弱点につけ込んで、俺たちを経済的に支配しようとするのは、ひどいんじゃないか!」 当時、タマサート大学の政治学部の講師をしていたP氏は、食ってかかってきた。
「でも、タイの軍事政権が日本企業の経済進出を推奨してるんだぜー。タイ国の内政干渉はできないしね……それに欧米型・資本主義の世界に生きているんだ、弱肉強食は当たり前じゃないか。白分の身は自分で守るべきじゃないの?」
「それはそうだ。でもやはり俺は不満だ。欧米型資本主義の経済学はアジアにはそぐわない。だから俺たちの手で改良すべきなんだ」
「そうだな、そういう時代がもうすぐ来るのかな……」
 こんな会話を交わしてから、すでに一五〜一六年経ってしまった。

豪州美人との握手で
 いつの間にやら日本は、世界第一の債権国となり、経済大国となった。そして日本はアジア近隣諸国を、意図しないうちに繁栄させている。あのタイ国ですら、今や日本企業の進出ラッシュで高度経済成長をし始めたという。
 そして日本経済の膨張に恐れ戦いているのは、オーストラリアや、アメリカ、ヨーロッパ諸国になってきている。
 欧米が万能の時代は、この一〇〇年間で日本が中心となって終わらせてしまった、と言っても過言ではないだろう。次は「アジアの時代」だと言う人も多い。
 だが「アジアの時代」が来るためには、我々アジア人が共通して感じる「違和感」を大切にし、その「違和感」を手掛かりとして、未知の世界を開拓していかなければならないと思う。
 だが、果たして日本人に「アジア人」としての自覚と認識が、十分にできているだろうか?
「日本はアジアの国だと思う? それともアジアと欧米の間にある国だと思う?」と、数年前に何人かの日本の若者に聞いてみたことがある。
「ウン、アジアの国というより、西側先進国の一員だと思う」というのが全員の答えであった。
 だが、我々は紛れもないアジア人なのである。
 まず、体格がアジア人である。
 女優のエリザベス・テイラーの手は握ったことがないけれど、オーストラリアの同じくらいの美女の手は握ったことがある。
 手の厚み、太さが筆者の倍はあり、「コリャー喧嘩したら、殺されるわ……」と、"二年越しの片思い"もまたたく間に醒めてしまった。
 それほど、欧米人と、日本人の間には、基礎的体力に差がある。
 東南アジアを旅していると、日本の文化の源流に触れる思いのする時がある。
 マレーシアには日本のお赤飯そっくりの家庭料理がある。見た目は同じだが、ただ甘いお菓子になっている。
 インドネシアのバリの民族衣装を見ていると、何かそこに、日本の着物との共通点が見受けられる。
 日本は、近代的最新ハイテク技術以外は、全くアジアの国なのである。

「敗者」が見えない社会
 欧米を追いかけるのを止め、真似するのを止め、新しい思想、哲学、経済学などをほうはいと創り出していくのが、「アジアの時代」の到米を告げるものだとしたら、その第一歩は、まず我々が、「アジア人としての自覚」を持つところから始まるのだろう。
 また、「アジアの時代」、ないし「日本の世紀」が来るとはいっても、今のところの現実は、アジア諸国、特に日本は、むしろ、世界経済に混乱をもたらしているだけで、さっぱり新しい風は吹き込んではいないように、南半球からは見える。
「アメリカと日本の経済摩擦がもっとひどくなればいいんだがな……」と、ビルは言う。
「何でまた?」
「日本人に、世界を支配されるのはまっぴらごめんだからさ。日本人は生活を楽しまないで、ガツガツと働くだけの"金"の亡者だろう。そんな気味の悪い日本と、経済戦争をして勝てるのはアメリカだけだからな。俺は日米経済摩擦・戦争を大歓迎するよ」
「そいつは、ご挨拶だなー、確かに金儲け以外に理想のない"働きアリ"に世界を経済支配されたら困る、というのは分かるけど、でも、経済戦争をしたらアメリカが負けるという観測もあるよ」
「それはないね。第二次世界大戦と同じで、最初は、日本の歩がよくても、最後は資源のあるアメリカが勝つさ」
 金物屋のビル・ヒューム氏は、酒を飲むと、時々とんでもないことを言い出す。いや、本音が出てきてしまうようである。ビルはこの街の名土で、億万長者で、地元のロータリー・クラブの重鎮である。
「理想のない、貧欲な"金"の亡者に、地球を支配されたくない」というビルの意見は極端だろうか? だがオーストラリアの多くの人々が同じように感じているようだ。
 アジアで生まれ育った「調和」志向は、その根を、貧困と無秩序、混沌とした非合理の世界に持っている。従って、貧困の中から育った日本の「調和主義」の経済戦略は、貧欲で、富を追うことに飽くことを知らない、といった姿になりがちだ。
「調和」に留意するのは、相手国が悲鳴をあげて、強行手段に訴えてくる寸前である。
 だが一方、日本の「調和主義」の経済社会は、「敗者」のいない、あるいは敗者がはっきりしない社会である。国民誰もが中産階級に所属するという意識を持っており、そして失業者は少ない。つまり、敗者が見えない構造になっている。
 だが、ここ南半球では、勝者と敗者ははっきり分かれている。金持ちは大邸宅に住み、貧乏人はバラックに住んでいる。
 経済が停滞したら、街はたちまち失業者で溢れてしまう。
「アジアの時代」というか、「日本の世紀」が訪れたときの最大の功績は、この、「敗者のいない国際経済社会」の実現にあるのではないだろうか?

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