
ミャンマーを始めて訪問したとき、経済企画庁の局長クラスの方と夕食に出掛けたことがある。彼と一緒にミャンマー人の事業家も一緒だった。ミャンマーでは基本的に政府の官僚は、外国人と接触することが許されていない。だが友人の紹介があったのでYさんは特別に禁を犯して、食事に誘ってくれた。
首都ヤンゴンには湖がある。その周りには多くの料理屋がある。そんなところでYさんと食事した。
Yさんは子ども二人で奥さんと共稼ぎ、国家公務員の給料ではとても暮らしていけないそうで、夜は学校で英語も教えている。政府の役人の給料は、月給五〇〇〇円と安いが、お米は政府が支給してくれるそうで、食べることは出来るとのこと。
ちなみにミャンマーの物価は、べらぼうに安い。たとえば、食べ放題のバイキングで、一人、一〇〇円ですむ。基本的に三毛作のできる土地柄で、食べ物は豊富。石油も国内で生産しているので、日本みたいにアラブ諸国に依存することもない。だから世界の秘境として鎖国政策も続けることが出来るのだろう。
Yさんが事業家と同伴だったのは、料理屋の食事代を払えるほどの余裕がなかったからだろう。事業家は宝石の原石を掘って加工し、輸出しているという。
「ところでアウンサン・スー・チーが政権をとったら、ミャンマーは今より豊かになりますかね? それとも民族間の闘争が激しくなり、国が分裂するのでしょうか?」
Yさんは周りを見渡して、誰にも聞かれていないことを確認した。だいたい官僚は、外国人と政治の話などは、してはいけないのだ。だが、ミャンマーの最大の問題は、今の軍事政権が、民意を代表する存在ではないことにある。
一九九〇年に民政移管の狙いもあり、総選挙を実施したが、スー・チー女史の率いるNLDが、軍部の支持する国民統一党(NUP)を圧倒した。当然、軍部は、約束通り、政権を手放すべきだったのだが、新政府の樹立を認めず政権に居座った。
これが国際的避難を浴びることになり、欧米諸国、日本からの公的援助が打ち切られた。また、世界銀行、アジア開発銀行などからの借入れも出来ない状態に置かれ、それが現在まで続いている。
軍事政権SLORCは一九八八年の三月から政権を掌握している。それまではネ・ウイン将軍が軍事独裁政権を維持し、社会主義的な政策を実施していた。どこでも社会主義的な経済政策は破綻しているが、ミャンマーもそんな国の一つだった。経済が停滞し、闇市場が台頭し、当時の政府は、高額紙幣の突然の廃止という乱暴な政策を採り、一気に国民の支持を失った。

ミャンマーでは今でも銀行に口座を持つ人が少ない。簡単に高額紙幣が紙くずになるような国では、そもそも貨幣経済に信用が置けないのだ。したがって国だけでなく銀行も信用されていない。
こんな軍事独裁政権に愛想が尽きた大衆は、一九八八年三月に民主化を求めて大衆運動を起こした。血気盛んな学生たちが先頭に立ち、大衆運動は暴動と見なされ軍隊によって鎮圧された。このときに学生がたくさん殺害されたが、軍の発表によると四一名、反政府側の発表では二八二名だった。
ネ・ウイン政権は戒厳令を発動したが、反政府運動は高まり、ヤンゴンでは連日一〇万人のデモが繰り広げられた。そこにミャンマーに独立をもたらした英雄アウン・サンの娘スー・チーが反政府運動に加わり、反政府運動はピークに達した。事態を憂慮した軍部は九月一八日にクーデターを起こし、SLORC(議長・ソウ・マウン大将)を設置して、全権を掌握し、反政府・民主化運動を徹底的に弾圧した。
ネ・ウインの社会主義政策から離れ、ミャンマーに市場経済を導入し、外国資本ヘの開放政策を採用したのも、このSLORCだった。
「私は官僚ですから、トップがだれになっても国のために一生懸命仕事をするだけです。スー・チー女史の実力は未知数です。ただ確かなのは、軍部の支持を得ないと、何も出来ないことです。ミャンマーはまだ民族間の争いがあり、軍事力なしには、国はまとまりませんから・・・」
食事が終わったら、ミャンマーの事業家が「大地さん、良いところにつれていきたいと思います」という。もっともYさんの英語の通訳を介しての会話だったが・・・。
曇り空で星もなく、月も出ていない夜だった。<エ? 二次会? ミャンマーにも夜九時過ぎまでやっている飲み屋があるの? それとも、ナイトクラブでもあるのかな?>と、好奇心が高まった。
車に乗って行ったところ、「よいところ」というのはダウンタウンにある有名なお寺だった。小さなお寺だが、こんな夜遅くでも、参拝者の数が多い。庶民の憩いの場なのに違いない。仏塔の内部にも入ることが出来た。ガラスのケースの中に貴重な品々が飾られている。
仏教の国ミャンマーの人々は、あくまでも信心深いようだ。「神や仏」と縁が薄くなってしまった身には、よい経験だった。