今週の疑問
「日本人(38)超民族性」
大地舜
8月19日
もはや古い話となってしまったが、サッカーのワールドカップが韓国と日本で開かれた。
21歳になる大学4年生の息子マーナは、日本のジャージを着て、国立競技場で応援、すっかりワールドカップを楽しんだ。「もう1試合勝って欲しかったな、そうしたら、もっと楽しめたのに・・・」とマーナは言うが、どうやらこれはお祭りを楽しんでいるだけのようだ。
だが、日本という国を、みんなで応援するという雰囲気は、インドネシア生まれで、3歳から8歳までの5年間をオーストラリアで過ごし、英語と日本語のバイリンガルに育ったマーナに、なにか深い影響を与えたのではないか・・・? と、関心を持ってみている。マーナはいわゆる帰国子女であり、国粋主義とは無縁な存在に見えるからだ。
この若者たちの日本応援を見て、国家主義・民族主義の高まりを懸念する声もあったが、ことはそれほど単純ではないようだ。マーナのようにお祭り楽しんだだけの若者が多かったに違いない。
さて、国粋的な応援は、サッカーには付き物だ。むしろ世界的に話題になったのは、日本人の「超民族性」らしきものだった。このとき、日本の観衆が、いろいろな国のジャージを着て応援したことが、世界的な話題になったと報道されていた。
ヨーロッパでのサッカーは戦争の代わりに行われるスポーツだと言われている。イタリアのセリアAの応援を見ても、観衆は暴動寸前まで興奮する。地方都市という小国のチームが、戦争のように戦うわけだ。それが国家の戦いになるのがワールドカップ。
そこで「フリーガン」なる民族主義的、国家主義的な暴徒が跋扈し、ヨーロッパのサッカー場を混乱させることが多い。特にイングランド・サポーターはフリーガンの元祖として、欧州各地の嫌われ者。ところが、日本や韓国で行われたワールドカップでは、「フリーガン」が活躍する場面はなかった。
その理由の一つとして挙げられているのが、日本人の「超民族性」だ。極東で行われたワールドカップなので、フリーガンも、遠すぎて来ることができなかったのかもしれない。だが、別の理由があるのだという。ヨーロッパ人を驚かせたのは、日本人が対戦国ベルギーや、準決勝で対戦する可能性のあったイングランドを熱心に応援したことだそうだ。
イギリスの経済紙『フィナンシャル・タイムズ』は「日本人は、憎しみなき熱狂で、W杯をより豊かにしてくれた」と最大級の賛辞を送った。つまり、狭い日本民族至上主義を離れ、大きな心で、サッカーというゲームを楽しんだという。
日本人は本当に「超民族性」をもっているのだろうか? あるいは、日本人の持つ『和』の精神の現れだろうか? 日本人は基本的に争いを避ける文化をもっている。それが「超民族性」と誤解されたのだろうか? 日本人は縄文時代から、外来人に親切だ。だから、その伝統的ホスピタリティーの現れか? それともただお祭りを楽しんでいただけかなのか?
「超民族性」を感じさせるのが日本のマンガだ。世界を制覇している日本のマンガには、「無国籍性」がある。私も全巻そろえて熱読した『ドラゴンボール』の世界も、地球規模・宇宙規模の話で、荒唐無稽であり、素晴らしかった。子どもの好きなキティーちゃんの本名は「キティー・ホワイト」だという。『ポケモン』も世界的にヒットしているが、登場するヒーロー達の国籍は不明だ。日本のマンガの元祖「鉄腕アトム」も無国籍の雰囲気が強い。
日本のマンガ界は、海外市場を意識しており、そのために「無国籍性」を最初から狙っている節もある。「無国籍」ということは民族の伝統文化から、離れて、世界的普遍性を持つことだが、この傾向は、ハリウッド映画の世界制覇とは、異なった現象に思える。ハリウッド映画は、アメリカ的文化観の押し売りの面が強い。一方、日本のマンガは、たしかに「超民族的」のにおいがする作品が多い。
だが、奇妙なことに、周りを見渡しても、一般大衆の中に「無国籍的な日本人」など、見ることができない。「超民族性」を持った日本人などに、おめにかかったこともない。前にも言ったけれど、外国語の上手な国際人と言われる人々のほとんどは「国粋的国際派」なのだ。むしろ彫刻家・棟方志功のような純日本人に、世界的普遍性を持った人が多い。一つの世界を極めると、そこには人類的な普遍性がでてくるのは、誰でも納得する。今回のワールドカップで判明したのは、相互神・調和が支配する日本の国が、その根本において世界的な普遍性を持つことだ。
つまり、「相互神・調和」の教えである「和」の精神は、その根本において世界的普遍性を持っている。ワールドカップでかいま見えた日本の「超民族性」は、伝統文化「和」の現れだったに違いない。
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