記紀神話によれば、天皇のふるさとは日向の国である。神武天皇が、日向の国美々津浜より船出して、畿内地方を平定した事になっている。有名な、神武東征である。最近では、東征ではなく東遷と言う言葉が好まれているようだが、いずれにしろ天皇は、宮崎から畿内地方に移った事になっているのだ。戦前の皇国思想では、宮崎は天皇家のふるさとで、記紀神話は紛れも無い歴史として扱われていた。そして皇国思想の下、植民地支配、第二次世界大戦へと突き進んでいったのだ。
現在でも、当時の思想を色濃く残している建物が宮崎にはある。平和台公園として整備されている場所に立つ巨大な石塔だ。平和台公園も、前方後円墳や横穴式古墳の密集する丘にあって、園内には数多くの埴輪が飾ってある。

巨大な石塔は、日本の植民地支配下のアジア各地から集めた石材で作られている。石には、寄贈した駐屯地と軍隊の名前がそれぞれ刻まれていて、生々しい物がある。そして、石塔の中央には、大きく「八紘一宇」と書かれている。「八紘一宇」とは、地の果てまでを、一つの家のように統一して支配する事を意味し、日本の植民地支配のスローガンでもあった。
この様に、宮崎は皇国思想の中心的聖地として祭り上げられていたのだ。そして、敗戦と共にこの考え方は一変した。神話は、歴史の世界からフィクションの世界へと180度変わってしまった。神話と歴史の関連は、戦前の皇国思想に結びつくとして一切否定されてしまったのだ。それどころか、神話と歴史が結びつくような発見や研究は、アカデミックの世界では、タブー視されるようになっていった。
つまり、日本の統一国家としての歴史は、畿内地方に始まり、畿内勢力の下にそれまでばらばらだった国々が統一され、ついには大和朝廷が成立したと言う事だ。記紀神話の「神武東征」は、天皇を権威付け、大和朝廷を正当化する為に作られた完全なフィクションと言うわけである。
ここで、冒頭に出てきた生目古墳群での会話を思い起こしてほしい。
「ここの古墳は、まだ知られてないけど、異常に古いんですよ。」「しかも、畿内にある古墳が、大きさが縮小した形ですべてそろっている。」
・・・「と言う事は、畿内の古墳は、ここをお手本に作ったと言う事ですか?」
「そう考えるのが、自然ですよね。誰でもそう思うはずです」「でも、公には、畿内の巨大な勢力にあこがれた宮崎の勢力が、畿内に遠慮して、そっくり同じ物を少し小さく作った事になっています。」
・・・「でもそれでは、時代的に矛盾があるではないですか?」「ウーン・・・・」
つまり、こういう事だったのだ。宮崎の古墳が、畿内地方の古墳より古くなっては困るのだ。宮崎が先となると神武東征が立証されてしまうのだ。宮崎では、研究者も疑問を投げかけざるを得ない不思議な物が、数多く確認されつつある。しかし、神武東征や神話と結びつきそうな発見は、口を封じざるを得ないのが実情らしい。
ちなみに、上記の会話を交わした研究者に、笠置山墳丘墓の事を尋ねてみた。答えは「向こうは、生目より更に古い。確実に3世紀にさかのぼる。もし日高氏が何か見つけたのなら、それは弥生の遺跡だから古墳ではなく、ただの山だ。」と言い切った。古墳ではない理由は、時代だけなのである。逆手に取れば、日高氏の主張する年代は、確認されたわけである。
通常、古墳が作られ始めたのは、4世紀以降の事とされる。一般には、奈良県の箸墓をはじめほんの数箇所のみが、3世紀後半までさかのぼれると認められている。この中でも箸墓古墳は、日本最古級の定型化された前方後円墳として、卑弥呼の墓の第一候補に上げられている。
ところが、実際、宮崎の古墳を尋ねてみて驚いたのは、3世紀後半まで遡れる可能性のある古墳がごろごろあるのだ。中には、3世紀半ばまで遡れるのではないかと解説されている古墳まである。しかし、あくまで可能性の段階でとどめておき、大きくアナウンスするつもりはまったく無いらしい。
しかし、つい最近流れを変えるかもしれない出来事が大きく報道された。宮崎大学の柳沢教授が、西都原古墳群の中の81号墳は、3世紀半ばまで遡れると言う調査結果を発表したのだ。実際、2005年の調査では、この古墳から瓶棺が出土している。瓶棺は、典型的な弥生時代の遺物なのだ。
実は、以前間接的にではあるが、柳沢教授にも笠置山墳丘墓に対する意見を伺っていた。柳沢教授もまた、笠置は古いので、古墳ではないとコメントしていたのだ。その本人が、弥生時代に遡る古墳があるかもしれないと言い出したのだ。もう笠置山墳丘墓を、古墳と言い切っても何も矛盾しないだろう。
こうなってくると、やはり機内の勢力は、宮崎を出発点としていた可能性が断然高くなってきた事になる。勿論、神話に書かれている事が、そのまま現実だとは思わない。しかし、大筋は現実の出来事を参考に、書かれていると考える方がより自然だろう。神武東征はあったのだ。