kitombo.com | カルタゴ皇帝ゴンの世界 | 2005年10月17日
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カルタゴ皇帝ゴンの世界
「邪馬台国と製鉄−3. 巨大墳丘墓の発見」

カルタゴ皇帝ゴン
10月17日

 宮崎市の平野部、瓜生野・上北方地区を中心として、長年考古学調査を行ってきた日高_という個人研究家がいる。調査と言っても本格的な発掘調査が一人で出来るわけではないので、工事等で剥き出しになった遺跡を見つけては出向き、工事の傍らで出土物を拾い集めるというスタイルをとっている。長年このスタイルを続けているおかげで工事関係者も邪魔をしない限り、おおむね理解があり協力的なようである。
 この日高氏が、1996年、瓜生野地区柏田の変電所裏の小山が、人工的に作られた巨大墳丘墓である事に気づいた。実際、調べてみると、その場所は既に大正時代に宮崎市によって史跡として認定されている場所だった。しかし、既に住民の記憶からは忘れ去られ、柏田に大きな古墳があるという噂だけが残っていたようである。
 更にこの場所は、古来、笠置(かさご)山と呼ばれていたことも判った。この墳丘墓は、明らかに前方後円墳の形状をしていた。前方部と後円部をあわせると145.5メートルにもなる巨大なものだった。とりあえず日高氏は、この場所を笠置山墳丘墓と名付け、宮崎市に調査を依頼した。
 しかし、調査は一向に行なわれ無かった。半年余りがすぎた頃、いきなり試掘が始まった。試掘の段階で、数々の遺物が出ていたので、本格的な発掘もまもなくだろうと期待していたのだが、期待とは裏腹に墳丘墓の一部は、整地作業などで壊され始めた。驚いた日高氏は、連日のように笠置山に赴き、整地作業で壊されていく墳丘墓からの出土物を集めた。そして、笠置山墳丘墓の一部及び周辺から出土したものを、考古学者と相談し時代考証を行った。
 その結果、笠置山墳丘墓周辺から数多く見つかった庄内式土器や瓶の破片から、出土物は2世紀後半から3世紀中ごろの物である可能性が出てきたのだ。一般的に、前方後円墳が作られ始めたのは、4世紀だとされている。最新の研究では、畿内の箸墓古墳などは、3世紀の半ば頃まで遡れるかも知れないとされている。だとすると笠置山墳丘墓は、史上最古級・最大級の前方後円墳である可能性がでてきたのだ。


庄内式土器片(左)と壺

 更に、日高氏が笠置山周辺を綿密に調査した所、後円部の先に、もう一つ円形墳丘があった。当初独立した別の古墳と考えたが、笠置山を取り巻くV字溝が、もう一つの円形墳丘墓も含めて取り囲んでいる事が判明した。又、周辺からは続々と笠置山に関係あると思われる遺跡が見つかってきた。
 日高氏は、笠置山周辺を徹底的に調べ上げ、周囲から見つかった物を、地図上に描いていった。その結果、意外な事実が次第に明らかになってきた。当初、単体の前方後円墳と思っていた笠置山墳丘墓は、周囲に様様な遺跡を従えた一つの複合体として構成されていたのだ。そして、その複合体は、全体として巨大な鳥の形をしている事がわかった。
 残念ながら、羽の右側部分は開発が進んでいるため、まったく残されていないが、左羽部分は明らかに古墳と一体に構成されている事が判る。前方後円墳の形をした笠置山墳丘墓は、巨大な鳥の胴体部分に相当していたのだ。


笠置山墳丘墓見取り図(日高_氏作成の原図に基づく複製)

 日高氏の調査による笠置山墳丘墓複合体の詳細を見ていこう。日高氏は、発見される遺物の特徴から、複合体の羽の部分は、土壙墓区、王宮区、工業区に明確に区分けする事ができると考えている。  羽の付け根に最も近い部分が土壙墓区で、土を掘っただけの土壙墓が整然と100基余り並んでいる。もちろん100基すべてを確認したわけではなく、土壙墓の間隔と分布範囲から割り出した値である。更に、その土壙墓には、それぞれに祭祀土器や鉄剣、鉄鏃類などが収められていた。写真は、工事により破壊され始めた土壙墓から、日高氏がかろうじて救い出した鉄剣である。


4号土壙墓出土の鉄剣と鉄鏃

 日高氏は、遺跡部分に工事が入るたびに、宮崎市や県に報告したが、結局たらい回しにされたあげく破壊を止めることは出来なかった。しかし、土壙墓部の一部は、現在も畑の下に埋まっていて、バイパス道路に面した畑の斜面には、土壙墓の断面が確認できる。
 次にくるのが、日高氏が王宮区と名づけた区画である。王宮区からは、柱を立てた後が発見されている。しかし、柱の形状からは王宮などの大規模な建物が建っていたとは考えられないと言う。大きな柱を持つ小さな建物の周りを、頑丈な柵がとりまいているように見えるらしい。この事から日高氏は、この場所が被葬者を墓が完成するまで一時的に安置した「もがりの宮」の跡ではないかと考えている。
 次に、日高氏が工業区と名づけた所が、羽の先端部分にあたる。この工業区内も見つかった遺物の種類で、いくつかに分類されている。この場所に特徴的なのは、驚くほど大量の石鏃(石の矢尻)が、出てきた事にある。更に、たたら製鉄の炉の跡やガラス球などが見つかっている。
 この場所の石鏃は有名で、すでに何十年も前に、雨が降るたびに大量に流れ出して散乱していたという。当時、日高氏を含む、近所の物珍しがり屋が多く集まり、散乱した石鏃を拾い集めていた。勿論、日高氏も当時は、ただ珍しい物がたくさん出るというだけで、拾い集めていたのだ。何故、そこに大量の石鏃が出るかなど、考えても見なかったという。
 こうして、日高氏の努力により笠置山墳丘墓の全容が次第に明らかになってきた。この地に、巨大な権力を有する大王が君臨していた事は、間違いないだろう。日高氏は、更に周辺も調査を進めていく中で、興味深い事実を発見した。笠置山とは、大淀川を挟んで対岸にある跡江地区の国指定生目古墳群の生目一号墳も鳥形をしている事を発見したのだ。
 生目一号墳は、生目古墳群の中でも、最も古い古墳の一つと考えられている。生目一号墳は巨大な前方後円墳で、後円部の直ぐ横には、円墳である生目二号墳がある。この生目二号墳を鳥の頭と見立てると、なるほど、確かに全体として羽を広げた鳥のような形をしている事が判る。
 このことから、日高氏は前方後円墳はもともと鳥形古墳であったものが、後に簡略化されて鳥の胴体部分のみが作成されるようになり、前方後円墳となったのではないか考えている。確かに、前方後円墳の一部には、日高氏が羽と称する部分に、小さな造出がついている事がある。これなどは、羽の名残と考えられなくも無い。


生目1号墳(左)と西都原の女狭穂塚模型

 鳥形古墳のアイデアは、実に面白い考えで可能性は否定できないだろう。しかし、残念ながら現状では証拠が少なすぎ、仮説と言うより単なる仮定の域を出ないだろう。
 1999年の夏、笠置山墳丘墓に、再び最大の危機が降りかかった。墳丘墓の一部は、新しく作られるバイパス道路工事予定地にかかっていたのだ。やがて、鳥形墳丘墓の頭部分に工事車両が入ってきた。今回は、これまでの散発的な表面だけの土木工事と違い、墳丘墓の一部を地下深くまで完全に取り壊す大工事だ。このままにしていては、笠置山墳丘墓の謎は永久に解けなくなってしまう。
 危機感を抱いた日高氏は、早速宮崎市へ遺跡保護の陳情を始めた。日高氏の必至の訴えが通じたのか工事は一時中断し、工事が始まっていた鳥形墳丘墓の頭にあたる円墳の試掘が始まった。その時点で、すぐに子供用の石棺など出土物が出たのだ。地元の人も見学に訪れ、日高氏の指摘した通り墳丘墓から遺物が出てきた事を確認している。

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