邪馬台国が、宮崎平野にあったとしたら、笠置山古墳こそ卑弥呼の墓と考えて間違い無いだろう。まず、場所的には申し分の無い事はわかっている。次は、年代だが、卑弥呼が死んだのは3世紀半ば、247年前後である。
笠置山古墳は、正式な発掘が行なわれていない為、年代を特定する事は難しい。しかし、日高氏は、笠置山古墳周辺で庄内式土器を見つけている。この土器の作られ始めた年代は研究者により大きく見解が異なるが、最も古い推定で2世紀後半であるらしい。つまり、庄内式土器が卑弥呼の時代3世紀半ばに作成されていた可能性は高い。決して笠置山古墳の年代を特定したとは言いがたいが、年代的に矛盾しない事も事実である。
実際、考古学者も笠置山周辺の遺跡は、弥生時代の遺跡と考えている事からも、3世紀代の古墳である可能性は非常に高いといえるだろう。
次に大きさを見てみよう。魏志倭人伝に記載の卑弥呼の大いなる塚の径は、100歩余りである。これを、現在の大きさに換算すると、おおよそ120m前後になると言う。残念ながら、魏志倭人伝には大塚の形は記されていない為、何処を図るかと言う事が問題だが、塚というぐらいなのだから、盛り上がっている部分の長径つまり前方部と後円部をあわせた値が、一番可能性が高いだろう。
笠置山古墳は、前方部と後円部を合わせた長径が、145.5mである。多少、魏志倭人伝の記述する卑弥呼の大塚より大きい値では有るが、これぐらいのずれは、誤差範囲に含まれるだろう。

箸 墓 古 墳
一方、古墳の規模から言っても卑弥呼の墓である可能性が高いとされる箸墓古墳の全長は、276mもある。明らかに大きすぎるのだ。どうやら、箸墓古墳の大きさが卑弥呼の墓と一致すると主張しているのは、後円部の直径のみをとっての話らしい。つまり、前方部は完全に無視しているのだ。いくらなんでも都合良すぎはしないだろうか。
卑弥呼が死んだ時、卑弥呼と共に100人余りが殉死したとされる。・・とすると当然、卑弥呼の墓の周辺には、100人の殉死者の墓がなければおかしい。笠置山古墳には、これがあるのだ!鳥型の羽の部分には、穴を掘っただけの土壙墓が、整然と並んでおり、推定でその数は100基ほどなのだ。
今まで、卑弥呼の墓ではないかと言われている古墳は数多く有るが、殉死者の墓を伴っていたと言う話は聞いた事が無い。しかし、死後の卑弥呼を守り、お世話をする為の殉死者が、墓も無く粗末に扱われる事は考えられない。卑弥呼の墓の周辺には、必ず彼等の墓があるはずなのだ。そういう意味では、笠置山古墳は、他の候補地と比べ大きく一歩リードしている事になる。
結局、この謎に決着をつけるためには、笠置山の発掘が行なわれる以外に方法は無いだろう。だが、現状では、実現の可能性はほとんど無い。せめて、将来の調査のためにこれ以上の破壊が進まない事を祈るばかりだ。