EUになってヨーロッパの旅はずいぶん楽になった。いちばん実感するのは、通貨をいちいち交換する必要がないことだ。いちいち入国審査もなく、かつては日本では実感できない国境というものの存在を痛感したが、最近はほとんど意識することがない。
だが、依然として国境は厳然として存在するのだ。それは鉄道の旅。それもスペインとフランスをまたいで旅するときに実感する。
ヨーロッパの鉄道網は充実していて、国際列車も数多く走っているが、なぜかスペインだけ軌道、つまり線路の幅が違うのである。かつては軍事上必要だった措置だろうが、その名残りのおかげで、スペインとフランスを結ぶ路線は、いちいち国境駅で乗換えをしなくてはならない。ちなみに、パリとマドリードを結ぶ有名なタルゴ特急などは、国境で一度車両を自動的に持ち上げるということができるので、利用者は車両を乗り換える必要がないが、普通の路線は乗換えが必要だ。
そして、地中海沿いの路線における国境駅が、フランス側はセルベーレCERBERE、スペイン側がPORTBOUなのである。
先月、南仏からスペインへと旅をしてきたのだが、そのなかで最大のピンチが襲ったのがこの国境越えのときであった。
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2月末のある夜、わたしは、ひとりでニース発の夜行列車に乗った。えらそうに旅のプロなどと言っているが、実は結構、過保護なお嬢体質で、ひとり旅の体験はつい最近までなかった。この歳になってようやくひとりでレストランに入ったりホテルを探したりできるようになったほどで、一人で夜行に乗るのは今回が初めてだ。
夜行列車は昔から盗難にはもっとも要注意の場所だ。移動のときは現金もパスポートもすべてを持ち歩いている。おまけに眠るのだから、まことに狙い目な状況である。
なので、貴重品を枕にして、浅い眠りに何度も寝返りをうった。実際、警察が何回も巡回に来たし、同じ車両に途中から乗り込んできた若い男性が警察に連行された。
そんな緊張の一夜を過ごし、早朝6時30分に国境を越えた。列車はスペイン側の国境駅、ポルトボウに到着したのだ。次のスペイン側の始発が出るまで、わたしはカフェ・コンレチェを飲みながら(数時間前まではカフェ・オ・レだったのにぃ。通貨は同じなのにもうスペインなんだね)、構内のカフェで時間を過ごした。そして、ようやく時間になり、列車に乗り込んだとき、トランクの中に入っているものを出そうとして、ポケットをさぐった。
背中が凍りついた。
そこにあるはずの鍵がないのである。どうやら、寝返りを繰り返しているうちに、ポケットから落ちたらしい。
う、う、うっそぉっ!!!
わたしの注意力のほとんどは身の安全と荷物を守るために使われていた。夜行列車の不安な一夜を無事クリアしたと思っていたのに、荷物は無事なのに、トランクを開ける術がない……。なんたるマヌケ。
しかも、わたしが乗っていた列車はすでにフランス側に帰ってしまっている。これが厄介な点だった。
その列車にさえ行ければ、座席の場所は特定できるし、探すポイントは決っている。簡単に鍵も見つかったはずだ。けれど、列車はすでに隣りの国に戻っているのである。国境の壁は厚いのだ。
少し英語が話せる駅員がいて、電話で隣国に連絡をとってもらったが、返事は「落し物はない」のひと言。返答があまりに早いので探していないことは見え見えだ。そりゃぁ、さぁーっと回って見つかるようなバッグなどの忘れ物はなかっただろうが、こちらの探して欲しいのは小さな鍵ひとつだ。それも場所は特定できている。もういちど聞いて欲しいとお願いして、相手はいやいや応じてくれたが、返事は同じ。探す気がそもそもないのだ。
さて、どうするか。
方法としては、もういちどフランス側の国境の町に戻って、自分の手で鍵を見つけ出すというのがひとつ。が、これは、必ず見つかるという保証がないうえに、このあとの旅の予定が大幅に狂うことになる。距離にすれば、列車なら5分もかからないのだが、両駅を結ぶ列車は、このあと数時間はない。さらに折り返しこちらに戻ることを考えると1日仕事だ。これが国境というものだ。
もうひとつのオプションは、錠前屋ってのを探すことである。日本では家や車の鍵を無くしたときの、そういう商売がある。日本であるならスペインにだってあるはずだ。ただ、問題はそんな店をどうやって探すかだ。
とにかく、国境駅であるという理由だけで列車が停まるような、他に何もないポルトボウにこれ以上いても埒があかない。とにかく次の列車で前へ進むことにした。
その日はバルセロナに泊まる予定にしていたが、その手前にあるフィゲラスという町に立ち寄るつもりでいた。ここには、ダリの美術館があるからだ。大都会に行った方が店の数が多い気もしたが、美術館が見たくもあり、この町で意を決して降りた。
トランクはいますぐ開かなくてもそれほど困るわけではないし、いざとなったら、トランクごと捨てるか、壊すかすればいい。あとは新たに買いなおせば済むものだ。そう開き直ると少し、気持が楽になった。人間、追い詰められると土壇場の底力ってのが出るのかなぁ。
そうはいってもやっぱり気になる。鍵のことが気になったまま、素直に旅を楽しむことは出来ない。
フィゲラスの駅に降り立ちはしたものの、再び駅員に事情を説明し、どこか鍵屋はないかと聞いた。
わたしだって、もし日本でそういう質問を受けたところで、じゃぁあの店と教えられはしない。何人もの人に聞いたがみんな首を傾げるばかりだった。ところが、ひとりの駅員が、もしかして役に立てそうな店があるかもしれないという。
それはたいへんありがたいことだし、うれしい情報だったが、しかし、店の名前もわからないし、通りの名前も分からない。教えられたのは、
「駅前に広場があるから、そこをそのまままっすぐ進み、すると次にまた広場があるので、その右側にある道を少し入ったところ」
こちらは、地図すらない。
まるで、カンダタがつかんだ蜘蛛の糸よりも細い手がかりだ。
わたしは最初の駅前広場から迷った。
ご存知と思うが、ヨーロッパの旧市街は広場を中心に道が放射状に伸びているのだ。“まっすぐ”と呼んで差し支えない方向には2本の道があった。
うーん、どっちだ。
しかも、次にすぐに現れるはずの広場が、道を見通すと2つある。旧市街では少し角度の違う道をとっただけで、どんどん目的地からはずれてしまうことがよくあるのだ。
おまけに、運の悪いことに天気は雨だ。ぬかるみが残る道を、トランクをゴロゴロとひきずって未知の町へ歩き出した。うーん、いったい・・・。
わたしは手当たり次第に歩いてる人をつかまえ、店に飛び込み、相手はまったく英語が通じず、こっちはまったくスペイン語が話せない状況で、道を尋ねながら、それでもなんとかそれらしき広場の近くまでやってきた。
なんだかわからないオフィスに入り(そこなら英語が通じると思ったから)、そこであそこだと教えられた店に行くとそれはホームセンターのようなペンキや大工道具を売る店で、その店では隣りのかばん屋を紹介され、さらにその店に居合わせた客が、広場と反対側にあるミスターミニッツのような店を紹介してくれ、そしてそこで、ようやく目指す鍵屋があることが判明した。
なんか、わらしべ長者のようだな。
小さな手がかりから少しずつ事件の核心に迫っていく、探偵か刑事のような探索であった。
奇跡的に見つかったその店にわたしがトランクを持ち込むと、おやじはおもむろに店の奥から道具を出してきた。布に包まれたそれを開くと、細いドライバーのようなものがずらりと並んだ、映像で見たことのある錠前開けセットだ!!!
そのときの安堵感といったらない。
肩の力が一気に抜けて、大きなため息をついた。
道具を鍵穴に差し込んでわずか3秒。カチリという音とともにトランクは開いた。
わたしは、このトラブルを「port bou の呪い」と命名した。それは、いまから20年前のヨーロッパ旅行で、ある出来事が起きたからなのだ・・・・・・続く。