三神たけるのお伽秦氏
「クリスチャン」
三神たける
6月18日
古代豪族の秦氏がキリスト教徒だというと、歴史通の人は、しばしば景教という言葉を
口にする。秦氏が景教徒ではないかという説は江戸時代に始まる。中国に伝来したネスト
リウス派のキリスト教についての文献が日本に持ち込まれ、多くの知識人が、そこに大秦
景教という文字を見た。大秦とは、これ古代ローマ帝国のことである。一方、京都におけ
る秦氏の最大拠点は太秦である。太と大という字には、似たような意味がある。しかも、
太秦の場合、大秦と表記した記録も少なくない。
中国が唐の時代、都の長安には景教の教会として大秦寺があった。これに対して、秦氏
の氏寺である広隆寺は別名を太秦寺という。太秦は大秦とも表記するから、これは中国の
大秦寺と同じではないか。つまり、現代でこそ仏教の寺院になっているが、実は景教の教
会だったのではないかという説が生まれた。早くは太田錦城や松浦静山などが、この説に
言及している。
が、もっともこれを有名したのは、東京文理化大学の佐伯好郎だ。彼は別名、景教博士
と呼ばれるほどのネストリウス派キリスト教の権威。その彼が秦氏はユダヤ人景教徒だと
主張したのである。これは当時の学会としても、ちょっとした事件だった。後に、騎馬民
族征服王朝論で名を知られるようになる東大の江上波夫は、佐伯氏の弟子である。
日ユ同祖論の先駆けとして、秦氏=ユダヤ人景教徒説は非常に有名だが、これは明らか
に間違いである。誤解されている方が多いので、ここではっきりと明言しておく。秦氏は
ユダヤ人景教徒ではない。後に景教を知った者はいるが、もともと景教徒ではない。もう
一度いう。秦氏は景教徒ではない。
これは佐伯氏も、晩年認めている。というのは、ネストリウス派が東方へ伝道しはじめ
た4〜5世紀、すでに秦氏は朝鮮半島に住んでおり、しかも日本へ渡来してきているので
ある。彼らが景教徒になったにしては、時代は合わない。
秦氏が信じたキリスト教は、景教、すなわちネストリウス派といった一異端ではない。
だからといって、今日のカトリックのアタナシウス派でも、またヨーロッパへ広まったア
リウス派でもない。これらはみな、後に教会が政治的な問題などで、勝手に解釈し、作り
上げた宗教である。
しかし、秦氏のキリスト教は、もっと古い。原始キリスト教なのだ。まさに、イエス・
キリスト直系の弟子たちから成る組織「エルサレム教団」の末裔なのである。一般に、12
使徒たちの組織はカトリックになったとされるが、真っ赤な嘘である。ヴァチカン最大の
アキレス腱が、ここにある。
もっとも古い原始キリスト教は、すべてユダヤ人からなっていた。彼らの組織は第1次
ユダヤ戦争以後、歴史上から忽然と消えている。エルサレムからヨルダン川の東側のペラ
という町に移住した後は、まったく足跡が不明なのだ。
だが、そこにははるかなるシルクロードが走っている。間違いなく、彼らは東へ向かっ
た。1〜2世紀にかけて、中国に大量のユダヤ人難民がやってきたのは、歴史的な事実な
のだ。この中にユダヤ人原始キリスト教がいて、後に秦氏になった。そう筆者はにらんで
いる。佐伯氏も、最終的には、ここに行き着いた。すなわち、秦氏はユダヤ人原始キリス
ト教徒だった、と。
よく秦氏=ユダヤ人キリスト教徒説の話をすると、どうも景教徒説が先入観としてある
ために、わけのわからない批判をしてくる人がままある。いい例が、景教徒であったかも
しれないが、ユダヤ人である必要はない、というもの。確かに、現在のキリスト教と同じ
ように、ネストリウス派=景教は民族を問わず、だれでも信者になれる。景教が伝来する
ことをザビエルのキリスト教伝来と同列で扱おうとすれば、自ずとユダヤ人である必要性
はなくなる。
それを説明するためには、ネストリウス派の教義は、ユダヤ教に近かったとか、ユダヤ
人の信者が多かったなどと、大した根拠も示さずに強弁しなくてはならなくなる。自らが
ユダヤ教徒ユダヤ人であるマーヴィン・トケイヤー氏は秦氏=ユダヤ人景教徒説を支持し
、それを広めた意味で有名な方だ。が、彼の場合、秦氏がユダヤ人といっても、失われた
イスラエル10支族の末裔だという説である。ユダヤ教から背教し、異教徒となった10支族
がいきなり景教徒になったというのは、あまりにも無理がある。
ユダヤ人でなくてはならないキリスト教は、ひとつ。原始キリスト教のエルサレム教団
以外にありえない。イエス・キリスト直系の弟子たちである彼らは、表のキリスト教はま
ったく違う使命があったのである。だからこそ、エルサレム教団ははるかシルクロードを
踏破し、極東の日本列島にまでやってきたのである。
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