三神たけるのお伽秦氏
「浅草」
三神たける
3月26日
日本に外人がお客さんとして来たとき、東京在住の方ならば、案内先の候補として浅草を想定する人も少なくはないだろう。浅草には浅草寺を中心として、江戸文化が色濃く今も残っている。西洋化された現代日本ではなく、歴史ある日本文化を紹介したいと思うならば、浅草は理想的である。近くには江戸東京博物館や相撲博物館、さらには国宝級の史料が集められた国立博物館も近い。かくいう三神もまた、先日、外国のお客を案内したばかりである。
浅草は江戸、下町文化の香る江戸文化の中心地。そう、だれしもが思うだろう。が、しかし。世の中、意外なことは多い。浅草は東京、江戸ではなかったといったら、どうだろう。白目をむく人もいるのではないだろうか。もちろん、浅草で育った江戸文化を否定するつもりは毛頭ない。
注目してほしいのは名前である。浅草という漢字にとらわれると見えなくなるが、アサクサという音に耳を傾けてほしい。浅い草では意味をなさないが、アサ草とすれば、イメージは広がるだろう。そう、アサクサとは本来、麻草なのだ。関東平野にあって、江戸から房総にかけては湿地帯が広がり、そこには麻が繁茂していた。現在は千葉県になっている上総、下総の総とは麻のことである。
しかして、浅草は本来、この上総国に属していたのである。江戸というよりは、千葉文化圏に属していたのである。
古代、千葉県を開拓したのは忌部氏である。四国から海を渡ってきた忌部氏が房総地方を支配してきた。その象徴は房総の安房神社であり、関東周辺に散在する鳥に関係した神社である。鳥、鷹、鷲はもとより、酉、高などといった文字を含んだ神社は、ほとんど忌部氏が関わっているといっても過言ではない。一部はヤマトタケル命に起源を結び付けているものの、本質が忌部氏にあることにはかわりはない。
忌部氏とは神道における祭司一族である。中臣氏や卜部氏と肩を並べる。いや、古代における天皇祭祀に直接関わるという意味では、それ以上の存在である。彼ら忌部氏の中の忌部氏が、かの賀茂氏である。さらに、賀茂氏は秦氏と同族である。つまり、関東一帯を古代より支配してきたのは結局のところ、秦氏であるといっても過言ではないのだ。
ならば、当然のごとく、浅草にも秦氏の痕跡があってもいいはず。江戸文化の中心地とされた浅草に、秦氏の痕跡はあるのか。
実はある。が、それは表の歴史には、なかなか出てこない。知る人ぞ知るといった問題であるといってもいいかもしれない。
浅草及び江戸を支配したのは徳川将軍家であるが、その実務、実際の経済活動や一般の民を仕切っていたのは、浅草に居を構えていた実力者、かの浅草弾左衛門であった。これは歴史家も認める史実である。
浅草弾左衛門は世襲名であったが、注目したいのは初代である。彼のことを『江戸官鑰秘鑑』は秦左衛門武虎と称し、秦氏一族であることを明記している。これに関して、弾左衛門研究家の第一人者である塩見鮮一郎氏は荒唐無稽のひと言で切って捨てているが、筆者には、どうしても気になる。
いったい『江戸官鑰秘鑑』の編纂者は、どこから、そんな情報を得たのか。初代浅草弾左衛門の成功話を脚色するにあたって、秦氏をもちだす必要性はあるまい。確信的な文章からして、それに続く時代劇のような話を差し置いても、そこには史実の一片があるように思えてならない。
一説に、弾左衛門とはヘブライ語のダン・シモンであり、ダン族のシモン、もしくはシメオンのことだというが、その素性が秦氏だとすれば、あながち語呂合わせだけではないようにも思える。また、古代研究家の水上涼氏が指摘したように、浅草神社の神紋はガド族のシンボルと非常に似ている。現代のものではあるが、蚕の社と同じ三柱鳥居が向島の三囲神社に設置されている……。
こ今後の研究課題ではあるが、秦氏という視点から江戸文化、とくに浅草を見直すとき、意外な発見がまだまだあるように思えるのだ。
|