kitombo.com | 三神たけるのお伽秦氏 | 2007年12月17日
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三神たけるのお伽秦氏
「赤旗」

三神たける
12月17日

 その日は雨だった。島根到着からしばらくして、雲行きがあやしくなり、目的の神社に着いたときは、どしゃぶりだった。秋雨といえば聞こえはいいが、10月の雨は結構、身に染みる。これも歳のせいかと思いながら、笠片手に参道に立つ。
 赤秦神社。これまで全国の秦氏系の神社をめぐってきたが、文字通り秦という文字を冠する神社は少ない。四国に長宗我部ゆかりの秦神社はあるが、戦国時代から遡ることはでない。対して、この赤秦神社は「出雲風土記」にも登場するというから、その歴史及び由緒は正しき神社だといっていいだろう。
 訪れたとき、すでに社殿は新築され、古代の香りは想像するしかなかったが、面白いのは、神社のある場所だ。出雲王朝があったかどうかは別にして、ここに一大勢力があったことは学会では定説になったといいだろう。きっかけとなったのは、膨大な量の銅剣を出土した荒神谷遺跡と大量の銅鐸が出土した賀茂石倉遺跡だろう。これらの遺跡は小高い丘、畝の結構、狭い範囲にあり、その周囲には数々の神社が集まり、いわゆる風土記の丘として知られるのだが、赤秦神社もまた、そこにある。
 出雲勢力と秦氏。なかなか興味深いテーマである。両者はカモというキーワードでつながっていると推測しているのだが、個人的に気になるのは赤秦という名だ。秦は秦氏の秦として、赤は何か。文字通り赤い色の秦というわけではあるまい。地名に関連するのか。仏教経典の水を意味する閼伽なのか。
 アカハタという響きで、真っ先に頭に浮かんだのは「赤旗」である。いうまでもないが、共産党の機関紙の名称がアカハタなのだ。赤秦神社と赤旗。もちろん、たんなる偶然でしかないのだが、言霊という視点から見ると、結構おもしろい。
 共産党の父といえば、いうまでもない。カール・マルクスだ。マルクスとは本名ではない。彼の本名はモルデカイ。『旧約聖書』に同名の預言者が登場することからわかるように、マルクスはユダヤ人である。彼の共産主義という思想は、ユダヤ教から神という概念を抜き去ったもの。神なき『旧約聖書』である。共産主義が目指す理想社会とは、まさに神々の世界であり、ユートピア、キリスト教でいう千年王国にほかならない。『聖書』をまともに読んだことがない人間が多い日本において、戦後、共産主義は理想を掲げる左翼思想家たちとともにもてはやされた。
 思想問題に首を突っ込むつもりは毛頭ないが、共産主義=無神論という概念には、ひとつ異を唱えてもいい。人類の歴史を俯瞰するとき、必ず登場する原始共産主義という概念がある。原始共産主義の社会形態にあって、神なる概念は当然であった。神の名のもとの共産主義だった。原始キリスト教、ことエルサレム教団は、財産を共有するという原始共産主義が見て取れる。それは有神論的共産主義、もしくは有神論的社会主義だった。
 不思議なことに、21世紀の世にあって、無神的共産主義を目指した社会主義国家は、すべて失敗か、軌道修正を余儀なくされた。その一方で、日本は、どうか。世界中を見渡して、ここまで社会主義の理念を実現した国家はないだろう。福祉はもちろんだが、サラリーマン会社主義などと揶揄されながら、日本ほど社会主義の理念を当人たちが認識しないまま、いや求めるつもりはかったにしろ、気がついたら実現していた。もちろん、完璧ではなく、問題は山積みでありが、世界の国々の状況を見ると、そう思えて仕方がない。
 なぜ、そうなったのか。理由のひとつとして、筆者は秦氏の存在を挙げたい。有神論的共産主義、もしくは有神論的社会主義を是とした原始キリスト教エルサレム教団の末裔たちがいたからこそ、日本の現在があるのではないだろうか。
 無神論的共産主義の政党の機関紙名となったアカハタが、有神論的共産主義だったエルサレム教団の末裔たちが築いた神社の名前と同じ音だというのも、何か特別な因縁があるように思えてならないのだ。
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