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2003.1.25(土)に琉球大学にてシンポジウムが有り、筆者は、そのゲスト・スピーカーとして招待され講演をした。以下はその中の学術的な論議を除外して、一般向きの話題のみを抜粋報告する。 |
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| 日本の水中考古学 Under-water Archaeology in Japan |
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| 東京商船大学名誉教授・工学博士 茂在 寅男 Emeritus Professor of Tokyo University of Mercantile Marine: Dr. of Engineering, Torao Mozai |
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| (1)まえがき 先ず筆者が「水中考古学」に関与し始めた昭和55(1980)年の時点から筆を起こせば次の様に言えよう。 四面環海といわれる日本であるに関わらず、又日本の考古学界の挙げている業績は今や世界中から評価されているに関わらず、日本における「水中考古学」は、世界の水準に比して余りにも遅れをとって来た。その理由を考えれば、陸上考古学が華々しい業績を挙げつつある中で、権威ある考古学者を含み、新進考古学者もまた、輝かしい伝統継承の場が用意されているため、自然と陸上考古学への指向をとるためといえないであろうか。すなわち、「水中考古学」は世界的にみても新分野に属し、日本の場合には殆ど基盤らしい基盤が未だ確立されていないために、その方向へ進む学者が数少なかったことも遅れの原因であったといえよう。 もう一つの理由は、水中考古学の場合は、その現場が水中であるという特殊性にあり、学問の体系から考えても、基盤を陸上考古学に置きながらも、単純なる考古学の知識と能力のみで水中考古学と取り組むことが困難であることは火を見るより明らかなことである。すなわち水中考古学のためには、考古学、歴史学、化学などのほか、地質学、海洋学、気象学、航海学、電子工学さらには潜水学の様に、これまでの陸上考古学においては全く必要でなかった学際的研究組織による研究について、日本では経験が少なく、また在来の雰囲気からするとなかなか踏み切る態勢が整わなかったことも無視できない理由であった。 しかしながら日本沿岸の工業化と埋立工事とは急速に進展しつつあり、海上への都市拡大や築港あるいは空港建設など、驚くべき速力で進行しつつあるため、考古学的観点からすれば、世界的にも大きな期待をかけられている日本沿岸の「水中考古学的処女地」は、急速度に、しかも永久に消失しようとしているのである。今にして本格的水中考古学を開始しなければ、日本の学界は、必ずや悔を千歳に残すことになるであろう。もはや一刻の猶予も許されない時期に来ており、関係者はあげてこの分野を、せめて外国の一般水準程度にまでの水準引き上げに努力を払うべき時に来ているといえるのではないだろうか。こうした情勢下において、外国に比すれば極めて少額な予算であったとはいうものの、「古文化財」のわくの中において、水中考古学のために、ともかくも文部省特定科学研究費として初めて予算がつけられて筆者がその中心人物として選ばれたということは画期的であったと言えよう。と言うのは、もともと筆者は考古学者ではないのに、前記の学際分野の多くに関与し学際研究学者として活躍してきた関係上、水中考古学の発展のためには強い意欲を以って突入する事が出来て結果的には想像以上の成功を納める事ができたのであった。ということは、これを契機として続く後輩の努力を伴って「日本の水中考古学が格段の発展をとげる期待が持てる事になったといえるからでもある。 以下その要点について述べたい。但し今回の湯合は、一般論以外にも「水中考古学」の世界への報告者自身の過去の参与状況についても述べなければならない立場かと存じ、その点にも触れる事とした。 (中略)本文は学問的な記述が長く続くが、ここでは、一般的な話題に絞って学術的論議の分を略し、体験談のみを述べる。 (4)(追補)体験を通じて学んだ事 筆者はもともと理科系の学者であった。基本的には航海学を、更に細かく言えば航海計器を専攻の立場にあった。然し第二次大戦は日本が敗戦に終わったが、技術面に絞ってその原因を考えれば「レーダーで負けた」と言える、と結論し、今後の航海技術は電子工学系に転身する筈との見通しから、齢40歳になってから乍ら東大の電気工学科(当時)へ研究生として入り、マイクロウェイブの第一人者柳井久義先生の御指導を受けつつ10年間を過ごし、学位を得て、その後10年間東京商船大学の教授を勤めながら東大の水産科の講師を兼任する結果となった。この面では、現在普及しているGPSやカーナビ等の原点となる国際航海衝星(インマルサット)設定のための第一回国際会議の日本代表の一人として参加したと言う様な立場にも立ち、研究面では相当の方向転換をしていた。 一方に於いて、技術的に余りにも最先端の追求に明け暮れた事に反省をすることも有り。古い事も学ぶべきではないかとの考えから、基本的に専門の「海」に関係ある歴史の勉強を趣味として開始し、船の歴史や航海の歴史研究にも挑んだ。その点で当然の事、気象学や海洋学関係にも参与し、結果的に相当幅広い学際研究の学者の形になっていた。この時点で国立大学としての東京商船大学教授を定年退職し、私立の東海大学教授となり、自由奔放に振舞える立場に身辺の様子が変わっていた。 こうした状況下で筆者は文部省の特定科学研究費を支給されて、水中考古学の世界に突入する事となった。特定研究と言うのは、研究者が研究費を請求して研究費を支給されるのではなくて、或る分野での学術水準について、日本が世界の水準に遅れを取っており、対策を考えなければならない様な場合に、国の方で研究費を準備して、その分野の研究にふさわしい学者を選んで研究を依頼する形のものであり、以上の様な点からか、その中心人物に箪者が選ばれたのであった。これは筆者に取っては青天の霹靂であった。筆者自身はその時点に於いて殆ど「水中考古学」の知識が無かった からである。幸いにして筆者は長期にわたって国際的活動をしてきた条件の良さもあり、洋の東西を問わず多くの関係図書を急遽入手して水中考古学の文献を読みまくった。更には考古学関係の第一人者と言われた江上波夫先生に師事して密着状態となっての考古学の勉強の概略を学んだ。そして、陸上考古学の発掘現湯に参加させて頂き、その実務に参与し、この面での体験を積み重ねた。 一方に於いては、学生時代から長距離水泳等の訓練を充分に受けておる身でありながら、潜水術については経験が無かった事から、水中写真家としても知名の方であり、潜水技術の権威者の一人であった中村宏次氏に焦点を絞って個人指導者になって頂き、実習には充分の時間を掛けて潜水必要技師を会得した。誠に幸いな事に、筆者は他の面での過去の活躍を評価されて、研究内容を限定しない筆者個人の研究活動を援助する資金供給が、これ又筆者からの請求では無しに、日本IBM社の意向によって個人としては高額の援助を受ける事となった。これは、公的研究費以外の援助金であった事から、筆者の新分野への挑戦を極めて有利に展開させてくれた。その堆進役を担当して下さった同社の重役高橋是修氏に心から謝する次第である。 以上の全ては昭和55年(1980年)からのスタートであった。既に定年退官後の高齢に達していた事もあって、筆者の「水中考古学」への活動開始は極めて慎重な姿勢で始まり、失敗をしないためのあらゆる手配をし、万全を期してのスタートであったが、結果的には全てが予想以上の成果を納める形となった事は心から神に謝する思いである。 先ず第一にこの研究の第一目的は、「日本に於ける水中考古学分野での実績が、技術面に於いてもその成果に於いても海外の水準に地して余りにも遅れを取っている状態の改善に有った」のであるから、これに取り組むからには、挑戦の第一歩から必ず成功しなければならないと思ったからである。このため筆者は日本の歴史上多くの海難事件の調査から始めた。そして数多くの資料を得たが、これは今後の研究にも役に立つであろう。ここで筆者の出した結論は海底に埋蔵された遺物の探査を目的とした場合、歴史上最も大きな事件として注目すべきは「元寇の際の神風によって蒙古軍船が大量に沈没した事件」であり、その関係遺物が必ずや海底に埋没している筈であると信じ、この線で研究を進めようと決心したことである。 第二には、筆者の研究姿勢として「現地調査主義」を取った事である。当時の歴史家の意見にしても歴史書の記載にしても、総てが「神風によって大量の元寇船が沈没したのは博多湾である」とされていた。従って、当然の事筆者は博多を訪れ、先ずは現地の教育関係者達に会い、更には郷土史研究者達に会い、現地での昔からの多くの言い伝えに耳を傾けた。これによって筆者は大きな疑問を抱くに至った。と言うのは、現地の人達の言い伝えと正史の記述が余りにも違う事に気付いたからであった。正史では文永・弘安の役(文永11年即ち1274年と弘安4年即ち1281年の2回の蒙古襲来即ち元寇の乱)に於いて神風によって元船が沈没したのは博多湾であると言われていた。然し筆者がねばり強く調査した現地での言い伝えとしては、特別に大規模の来襲だった弘安の役(第二次蒙古襲来)で神風によって蒙古船が沈没したのは「博多から西南西60kmも行った伊万里湾の鷹島沿岸である」と言う事であった。筆者としてはこの問題自体が歴史学上も大問題であり、「これを解明する事自体が日本の水中考古学上の大きな宿題となる」と判断し大きな意欲を持つに至った。そして早速鷹島に行って、鷹島の山奥に住む人々の言い伝え迄聞き歩いて、結論として筆者が第一回目に水中探索をすべきは、この鷹島沿岸であると決定したのだった。所が意外だった事に余りにも多くの関係学者から「筆者の考えが無謀である」との非難を浴びせられた事であった。これは筆者に取って第一の難関となった。然し結果的にはこの難関は以外と早く乗り切る事が出来た。 第三に筆者は現地の人と手を結んで互いに助け合いながら共に研究を進めるという姿勢を取った事である。そのため先ずは町長や教育長に挨拶に行った事から極めて協力的に受け止められ、現地の漁師達にも紹介され、彼等が漁網によって海底から引き揚げた「唐壷」迄見せられ、筆者は間違いなく「この鷹島沿岸こそ海底探索の第一候補とすべきだ」との確信を持つに至った。当時の宮本正則教育長が2003年の現在鷹島の町長となっているが、筆者の同島での数年間の研究活動に対して最後迄協力してくれた事に心から感謝する次第である。 然し、現地の住民との協力態勢を確立するのは必ずしも容易な事ではなかった。住民達に取っては、自分達の職湯でも有る漁場を海底調査等の名目で荒らされる事を恐れたからであった。このため、町長らの計らいで住民に集まって頂いた。そこで筆者は、熱心に説き伏せた。「この機会に皆様方の先祖の歴史解明がなされるのですから、精神的なご協力をぜひお願いします」と。 こちらの熱心さに雰囲気は次第に変わってきて、代表が質問に立った。「それなら、もし我々が了承したら、いつから始めるのですか」との質問に、筆者は「今年は住民の皆様の了承を取り付けることと、現場の事前調査と準備だけに留めて、来年の夏に」と答えた。ところが、質問はさらに日取りにまで及んだので、筆者は答えた「一年先のことだから、正確な日を今決めるのは困難ですが、来年7月30日からではどうでしょうか」。ところが皆さんはさらにざわめき出した。筆者は諦めざるを得ないかと思った。しかし、質問はさらに続いた。「なぜ、7月30日なのですか」。筆者は答えた。「大学が休みに入ってから準備期間を取って考えると‥‥」と。そうしたら一同は、またざわめき出したが、やがて代表が立って言った言葉を、筆者は永久に忘れる事ができない。「先生がもし何も知らずに、来年の7月30日から海底探索を開始するとおっしやるのでしたら、先生は神様のお使いだと思います。私達は先生の今回の作業に全面的にご協力申し上げます」と。驚いたのはこちらだった。しかし、話を聞いてみると、何も気付かずに私が答えた来年の7月30日という日は、新旧暦の違いはあっても、来襲元軍によってこの鷹島の島民が全滅にされた後、神風によって来襲の元軍艦隊が全滅になった1281年7月30日からちょうど700年目にあたる日だったのであった。ここにまた、運命の糸なるものを筆者は強く感ぜずにはいられなかった。 その会合の結果、筆者は多くの町民の方から握手攻めにあったばかりか、今までに漁網にかかって引き揚げられたところの元軍の陶器や武器類十数点を提供したいと申し出らた。そしてその夜のうちに、それらは教育長の手元に届けられた。まったく感激だった。これに対して筆者は心から鷹島の住民に感謝し、必ずや最終的には、ここの住民に喜んで頂ける結果を生みたいと念じたのであった。 それから、四年間、筆者は毎年の夏休みはほとんど全部をこの作業に費やした。発掘されたものは、あまりにも貴重な歴史的遺物の山で、青磁、陶器壷、石臼、蒙古剣、石弾、火難用摺鉢、碇石などなど、初年度だけで176点も引き揚げられた。 筆者の水中考古学への挑戦法の第四は、「円満に学際研究を進める」という研究姿勢であった。現実にはこの事が最大の難事であった。筆者はかつて、或る問題に巻き込まれ、人生に於いて事を成功させるためには同士間の「和」こそ最大要件である事を悟り、徹底的にこの「和」を第一の信条と心掛ける生き方に変わっていた。然し、今回の研究組織は何時の間にか大規模になってしまった。学者としても研究分担者のみでも十数名、研究協力者としての参与者が二十数名、更に潜水夫、操船者、計器類の技術者、更に測定援助や発掘遺物処理の手伝いを担当の東海大学生等も多数加わっての膨大なる組織であってみれば、その中心の推進役を担当した筆者の苦労は推して知れよう。 然し、筆者は学者であると同時に元海軍士官の経験者でもあった事から、この様な大きな組織の指揮には一応の自信を持っていた。唯問題は参加協力して下さった多くの学者先生方がそれぞれに分野の異なる権威者である事からか、それぞれに個性も強く、接触が長期にわたるに従って、全体を指揮する立場の筆者としては悩まされる問題が多くなって来た事も否定出来ない。ここに於いて筆者としては、「日本の学界に於ける学際研究の第一歩の踏み出しとしての水中考古学の意味の高さ」を心から意織してその成功に挑む気持ちを強めた。筆者としては一環して「和」の方針を進めたが、結果としては一応の成功を納めたと思う。 筆者としての研究姿勢の第五は、「新分野の開拓的意味を持つ水中考古学への挑戦であるから、視野を広くしてグローバルに連絡を取り、先進者としての海外の有名水中考古学者からも色々と学ぶべきではないか」との方針を取った事である。その点では、世界の水中考古学として有名な米人ジョージ・バス氏や同ピーター・スロックモートン氏、更にはオーストラリアのジェレミー・グリーン氏等からも学ばねばと考えた。勿論それ迄には既に日本人として功績を挙げている京都教育大学の小江慶雄教授など充分の連絡を取った上での事であるが、筆者としてはそれ迄にも連続海外生活の経験を持っていた有利からも「日本の水中考古学が世界に遅れを取っているので追い付け」との心情からも、筆者としてはこの際本格的にこの分野での世界の第一人者に学ぶべきであると結論し、実質的にはオーストラリアのジェレミー・グリーン氏の来日を仰いで、鷹島の我々の研究現場こ1ヶ月近くも滞在して頂き、徹底的にその指導を得たのであった。その間にブルガリアのバルナ−考古学博物館研究所のイヴァン・イワノフ氏等も加わって、研究作業は極めて国際色を帯びるに至った。 唯ここでも我々日本人学者としての反省の必要を感じた事を述べたい。それは、前述の通り多くの学者が参与している研究現湯に、海外の有名水中考古学者が一緒に1ヶ月近くも同居しており、筆者は皆さんにお互いを紹介しているにも関わらず、殆ど全くその後に互いの会話の機会を持たなかったという事である。寧ろ学生達は下手な英語で苦労しながら進んでグリーン氏から何かと指導を受けていたが、学者の先生方は殆ど接触しなかった事に筆者は首を傾げざるを得なかった。語学力の不足からであろうか。それぞれの分野に於ける誇りからであろうか。筆者の東大の研究室にいた頃の理科系の学者達の国際性の豊かさとは余りにも異なる雰囲気であった事に、唖然とし、今後の有り方に反省の必要を感じた。 最後に参考になる話を少し申し上げて終わりとしたい。実は上記の発掘物が余りにも予想外であった事から、騒ぎは全世界に飛び、「ナショナル・ジオグラフィック:1982年11月号」やスミソニアン博物館誌その他国際テレビ等にも報道されるに至り、さらに筆者自身がアメリカ政府に招聘されて、アメリカ国内の14ケ所の大学や持物館等での数十回の講演をすることになり、さらにイギリスのグリニッチにも、さらにデンマークまでにも呼ばれて講演をするという騒ぎになってしまった。然し、その一方で、次々と問題も生じたが、その一つに次のようなものがあった。 今回の発掘物が予想外に貴重な遺物の山であったために、その主要なものは東京の国立博物館へ収容するように、との指示が関係筋から筆者に伝えられた。筆者は悩んだ。鷹島の現地の人達にとっては、何から何まで協力して、自分達の庭先ともいうべき沿岸で発掘した宝物ではないか。筆者には、これを持ち去るなどという気持ちにとてもなれなかった。 その時、筆者は、一つのひらめきを感じた。そして町民の方々に集まって頂いた。 「私は今回発掘した貴重な遺物をぜひとも水遠に皆様の手元に置いて、保存展示をして頂きたいと思うのです。しかし、そのためには、それにふさわしい立派な資料館を建設する必要があるのです。いかがでしょう、私はこの島が蒙古軍に襲撃された1281年にちなんで、私のこの軽い財布から12万8千1百円を第一番の寄付者として提供しますから、皆さんも、またこの町からの出身者や成功者の方々にもご協力頂いて、みんなの力でここに立派な資料館を建設しようではありませんか!」。 破れるような拍手が起きた。 その後側聞するところ、結果的には町民の寄付だけで約5,000万円になったことから、長崎県が同額の5,000万円を加えて1億円とし、さらに国からそれと同額の1億円が加えられて約2億円になり、これによって堂々たる元寇資料館が鷹島に建てられたのであった。筆者は、本当に感激だった。ご参考にして項ければ幸いである。ただ若干心配が残るのは、地方自治体の性質上、何年かの間には当然自治体の政変が起こるため、こうした町の歴史たる件についても、時と共に評価は変わり、忘れ去られてしまうのではないかということである。 なお、念のため申し添えれば、南米アンデス山上のチチカカ湖での探検の成功を評価されて1996年にアメリカのアンデス探検財団に招聘されて渡米し、同財団から名誉メダルを授与された光栄に浴した事もここに報告したい。(以上) |
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