「与那国島海底遺跡第二次予備調査報告」
鈴木 旭
11/4
経過
7月31日から8月4日の「与那国島海底遺跡第一次予備調査」は、@太田さんに海底遺跡の現場を見ていただき、今後の調査方針を立てること、A同じく陸上の巨石遺構を見ていただき、海底遺跡との関係などを探りながら、今後の調査方針を立てること、B土地の古老に聞き取り調査を行い、@とAに関わりがあると思われる伝承などを聞くことの3点に基本的な目的が設定されました。
その結果は、大地舜さんのレポートで紹介されている通りですが、私が企図したところとは調査対象が違っていたため、改めて見ていただくことになりました。と言っても時間的制約がありますので、みみ石のあらましを見ていただいている久部良岳については省略し、宇良部岳とテンダバナに集中することにしました。
また、第一次調査の「B土地の古老に聞き取り調査を行う」という方針は第二次調査にも継承され、本土の神社に相当するお嶽(ウガン場所)の事前調査を実施した上で、池間苗さん(与那国資料館)や仲吉さん(つかさ)のインタビューをする機会を得ることができた他、杉本さん(シーマンズ 与那国管理人)の仲立ちにより、米城惠さん(町史編纂委員)に聞き取り調査をさせていただき、実質的な成果を得ることができました。
成果
1 宇良部岳山頂部の祭り場について
太田、斉藤ご両名と私の3名は、陸に上がってしまった和泉船長が運転する4WDに乗って宇良部岳の山頂部に向かった。まず、驚いたのは山道が完全舗装されていたこと。最後に訪れた2年前までは車輪が乗る部分が辛うじてコンクリートが打たれていただけだった。クルマは楽々、登って行った。
また、NTT電波塔周辺がきれいに清掃されていたため、以前は見ることができなかった宇良部岳山頂部全体を観察することができました。とりわけ、注目されたのは、電波塔の土台にイワクラに用いられた巨石と思われる岩が用材として多量に使われていることを確認したこと。従来は雑木林に埋もれていて見えなかったのですが、初めて電波塔が立っている山頂部に何があったのか、イメージすることができました。私は「かなり大型のイワクラがあったようだ」と今更ながら規模の大きさに驚きました。
今後、山頂部の元々の状況を復元すべく、なるべく早い機会にNTT か、もしくは工事関係者に当たって工事関係資料を集めたいと思います。それによって、おそらくは、たくさんのイワクラ群が立ち並んでいた往年の宇良部岳の風景を再現することができるものと思います。しかし、今回の主目的は他にあります。われわれは反転し、手に手にナタやカマなどを持って西隣の雑木林に踏み込みました。
雑木林は南北に細長く、真平らであり、細い豆もやしのような雑木ばかりが育っています。おそらく、地面は礫で埋められているとか、岩盤がむき出しになっているとか、根が張れない情況になっているものと思われます。逆に言えば、古代祭り場としては最適の環境にあります。そこは、第一次調査に来られた方々は見ていませんでした。そこで、改めて見ていただくということになったわけです。林の中に入って行くとありました。その奥にお目当ての巨石群、おそらくはイワクラであったはずの巨石群がありました。
足元の雑草を払い、頭にかぶさってくる枝葉を落とし、奥へ入って行ったところ、何体もの巨大な岩と再会することができました。巨大な岩の所々に刻まれた幾何学的な加工の痕跡、たとえば、ほぼ真四角の立方体に刻まれた直角の切り込みは人工的な匂いを漂わせています。太田、斉藤ご両名は「結論を急いではならない。われわれの見解としては自然にできたものだと言う他にない」とのことでしたが、いずれまた、見ていただきたいと思っております。
私の見解では、その巨石群がある場所は与那国島における巨石文化(イワクラ)の中心であるだけでなく、それが自然の山か人工の山であるか、その違いに関わりなく、山頂部に祭り場を築く環太平洋型祭祀遺跡(ピラミッド)になっており、海中遺構と呼ばれている巨大な岩の塊りや東埼堆と結びついておりますので、おそらくは祭祀に関わる埋蔵物が出土してもいいのではないか、と考えています。
2 テンダバナの祭り場について
テンダバナは長い間、祖内地区の水の源でした。
飲めなくなりましたが、つい2年前までは豊富に湧き出す水の源だったのです。しかし今回、第二次調査で訪れたテンダバナの山頂部は何故か、水枯れ状態で乾燥しきっている状態でした。しかも、乾燥している上、残土捨て場になっている有り様で、まるでごみ捨て場になっておりました。
クルマで一気に山頂部に上ったのはいいのですが、2年前と一変しておりました。ずんずん進んで行くとあるはずの沼がありません。クルマを降りた私は、ガジュマロの木を掻き分けて和泉船長の後ろに付いて行くと、ポカッと地面に穴が空いたような窪みの前に出ました。なんと、それが沼の跡でした。水が枯れて干上がってしまったのでした。水の聖地の沼が干上がってしまったのです。
与那国島はいま、島全体が干上がっているのでしょうか。心配になります。それはともかく、われわれはテンダバナの巨石群を見るために訪れたわけで、本来の主目的に戻らなければなりません。
巨石群は、この干上がった沼地の南側に展開しています。巨大な岩が重なっているのが視野に入って来ます。それが東西に連なっています。なかなかの重量感です。われわれは西端の重ね岩から見て行くことにしました。そして、お目当ての組石をお目に掛けるつもりでいたのですが、いくら見ても見当たりません。私は焦って来ました。妙だぞ。心は波立ち、次第に焦って来ます。
その上、あの太田さんが、あの大きな声で、「どれよ、どの岩だい」と畳み掛けて来ますので、大変です。どんどん奥に入り、探し回しましたところ、ようやくありました。ところが、それは岩と岩の間に入ったガジュマロの木が急成長して上の岩を押しのけ、無残にもひっくり返してしまったために形が崩れていました。
最もすばらしい組石遺構だったのに!
私は愕然としてしまいました。あれがなくなったのでは、もう来る意味がなくなったと言っても過言ではないほどです。仕方なく、「以前はこんなに立派な組石遺構だったのです」とうことで、証拠を示すために宿舎のシーマンズ与那国に帰ってから、私は以前に撮影した写真を出して見ていただきました。
いずれにしろ、テンダバナには「宮殿があった」という方がいるのですが、私はより詳細かつ具体的に「テンダバナは水の神殿だった」と言っておきたいものです。おそらくは、北側にある沼は鏡池であり、南側の巨石群は島全体の水源管理をするとか、何か、鏡池に関わる特別の機能を果たす施設の一部であった、と推測しております。
あるいは、具体的な根拠は何もないことですが、鏡池を“ヘブンズ・ミラー”とする天文観測センターにしてもいいのでは? などと大真面目に考えたりしています。それはただ単に宇宙、天文事象の動きを観察する現代的意味でいうのではなく、宇宙、天文事象の動きに対応して地上の動きを決定付けて行くための祭祀施設であったのではないか、ということです。
3 お嶽信仰とカブ(シャーマン)について
太田、斉藤ご両名については、久部良バリ近くの大断層地帯にも案内させていただいた。たまたま久部良バリを見学した後、海岸線に寄って見たところ、むき出しの荒々しい地層の折り重なるのが見えたのでした。雄大な原始時代の地殻変動期の地層も斯くの如き様なものか、と身震いするような感動を覚えた私は早速、太田、斉藤ご両名を案内申し上げたのでした。
お二人は大変、感動され、「サンニヌ台とか、知られた海岸部に止まらず、与那国島全体の海岸部を広い範囲において見直さなければいけない」とご発言になったのでした。従って、私は他に東崎、西崎でも面白い岸壁がありますけどね、と言いますと興味を持たれたようでした。翌日になって早速、実行なされたようでした。
こうして、私は太田、斉藤ご両名としばらく行動を共にした後、いよいよ私本来の目的である聞き取り調査に入りました。まずは教育委員会を訪ね、お嶽の聞き取り調査をさせていただくとしたら誰が一番いいか、聞いてみたところ、「それは仲吉ばあちゃんしか、おらんだろう」とのことだった。他に最も相応しい人がいたのだが、この時は誰も思い出すことができなかった。そこで、まっすぐ仲吉ばあちゃん宅に向かったのでした。
仲吉ばあちゃんとは、与那国唯一のカブ(ユタという霊能者の元締め)としてご活躍中のご婦人であり、御年は伺わなかったが、多分80歳近いのではないだろうか。お歳の割にはお若く見える。いまはカブをつとめる人もいなくなったため、仲吉さんは与那国全島のお嶽の面倒を見る。その仲吉さんにお会いする前、少なくとも久部良お嶽と久部良邑根の調査をしておくのは当然の作法であり、礼儀だと考え、事前に概略を見て歩いたところ、ある事実を発見してしまった。
鳥居を潜って境内に入り、正面の祠に向かって手を合わせてお参りをした後、顔を上げると正面に久部良岳のみみ石の姿が目に入ったのでした。さらに驚いたのは、コンパスで方角を調べたところ、参拝者が祠に向かってお参りをする時、その顔は真東を向くということだった。春分、秋分の日の朝、このお嶽に来てお参りをすれば、きっちりと日の出の太陽が真東から上がるのを見ることができる。
従って、春分、秋分の日の太陽と久部良岳のみみ石(三つ石)が完全に重なるわけであり、久部良お嶽と久部良岳のみみ石が完全に重なり、一つになっているという構図が見えて来ます。しかし、これは単なる偶然かもしれません。何か、確証を得る方法はないだろうか。そう考えた時、閃いたのはすぐ近くにある久部良邑根と久部良バリを見直すことだった。いずれも伝承は伝承としてあるものの、伝承には必ず裏がある。裏を取れ、ということもあった。
まず、久部良邑根に行った。通り過ぎたら見落としてしまいそうな粗末な石の祠だった。なんと、邑根マチリはみみ石を見上げて催される仕掛けになっていたのでした。唖然としてしまいした。おそらく、冬至の日の出方向に向かってお参りをすることになっているわけです。すぐ裏手に久部良バリがあるのですが、これが世にいう伝承とはべつに私は「割れ石」ではないか、と見当を付けた。そうすれば、冬至の日の出方向を見る祭祀ラインと重なって来るはず。
なるほど、仲吉ばあちゃんが忘れてしまったのか、それとも代々のカブの間に口伝相伝のしきたりがあり、決して口外してはならないという言い伝えがあるため、表には出ないのかもしれないが、何か、そういう神事の秘密がないとは言えない。それは翌日、再び聞き書きに訪れた時、痛切に「何か、ある」ことを思わされたのでした。
4 ばあちゃんの代理人、米城さんのこと
仲吉ばあちゃんのところへ空港へ着いたばかりの世一さんと一緒に聞き取り調査に訪れた。私は迂闊にも「お嶽に来ていただいて境内の施設について説明をしていただけないでしょうか」とお願いをしてしまった。ばあちゃんは「そんなことはお嶽で写して来ればいい」「それからここに来て話をすればいい」の一点張りだった。
そこで、私はハッと気付くところがあった。
「あっ、そうか。この方はシャーマンなんだ。神様の使いになった時、初めて本当の姿を見せるのであって、平日の日はただの人なんだ」
迂闊だった。そう気付いた時、私は思わず、「祭の時、改めて出直して来ます」と叫んでいたのでした。それを再び出てきて下さった杉本さんに伝えたところ、彼はばあちゃんに「彼らは旅の人で土地の決まりを何も知らない。よく言い聞かせておいたから心配ない」と取り成して下さった。このことがあったおかげで、ばあちゃんの気持ちも和んだのではないでしょうか。その証拠があります。
ばあちゃんの家を出た後、杉本さんが「あっ、大事なところを忘れていた」と言って町史編纂室に駆け込んだのでした。実は、これが神様の能きによるもので、霊感がなければ気が付かないところです。素直に神様の代理人であるばあちゃんに無礼をお詫びして出直しを誓ったからこそ、神様はわれわれが聞きたいこととを聞かせて下さる人物に逢わせて下さったのでした。それは町史編纂室の米城さんです。聞きたいことを纏めて聞くことが出来たのでした。
1 久部良お嶽のご神体は久部良岳のみみ石ですか?
答 そう答えたい。なぜなら、お嶽イコール本土の御嶽信仰と考えられるフシがあるからだ。これは完全な山岳信仰だ。とすれば、久部良お嶽がみみ石をご神体にしても不思議ではない。しかし、いろいろな解釈があり、簡単には答えにくい。
2 見たところ、お嶽のご神体は3枚の板石で、邑根石も同じ。ンダン・マチリ・トネなどは完全な三つ石になっている。あまりに立派な三つ石なので驚いてしまったが、久部良岳のみみ石と関係があるのですか。
答 そう答えたい。久部良岳に三つ石(みみ石)があるのは、久部良が与那国発祥の地であるためだ。久部良で国作りを始めた神様は島内の十二嶽を回り、島の中心である宇良部の麓にたどり着く。
3 ンダン・マチリ・トネの三つ石を見て来ました。それは、宇良部岳から夏至の日の出方向を見た時、見えるのですが、ンダン・マチリ・トネから逆に宇良部を見れば、冬至の日没を見ることになります。この後、神様には別のお嶽(名称不明)に移っていただき、北向きに直っていただくのだそうですが、これって、北極星信仰でしょうか。
答 そう答えたい。久部良が発祥の地だから、海の神様を迎える。そして、海の神様だから三つ石を祭り、十二お嶽を回り、与那国の中心である宇良部の麓に到着したら、最後は北極星信仰だ。
米城さんの話はほぼ全面的に私の仮説と合致するものであり、海中遺構の調査研究には不可欠のテーマとなるはずのように思われた。
とりわけ、注目されるのは、十二お嶽周りのマチリが終わろうとする時、ンダン・マチリ・トネの三つ岩が宇良部岳から見て夏至の日の出方向に見えるということは、前々から私が言って来た東埼堆、すなわち、沈んだピラミッドのある方向と重なるということで、極めて暗示に富んでいるということです。
陸上部に残された三つ岩が、なぜ、そこに、鎮座するのか? 黙して語らぬ三つ岩が、長い間、抱えてきた太古の秘密をわれわれは慎重に聞き取らなければなりません。北寄りの東の海から上る太陽を宇良部岳で拝む時、三つ岩が手前にそそり立ち、向こう側に東埼堆(拝殿?)がある。この構図は偶然ではありません。そこには、明確な意思が貫かれていることを見てとらなければなりません。
5 池間さんの証言
第二次予備調査でも池間さんに取材させていただいた。
いろいろとお話を伺った後、「お嶽巡りをしているところです」と言うと、池間さんの目が輝いた。そして、話し振りが全然違って来たのに気付くまでに大して時間が掛からなかった。嬉しかった。ようやく、池間さんの心の中に入ることができたように思いました。
池間さんが若やいだ声で言った。
「私ね、皆が水中遺構、水中遺構と言うものだから行って見たんですよ。確か、大きなガジュマロが立っていました、そして、その前にお嶽があったような気がするって、記憶頼りに出かけて見たのよ」
「それは最近のことですか」
「そうねえ、何年前のことかな。とにかく、行ってみたのよ。ところが、行けども、行けども、ないのよ、ガジュマロが」
「どの辺なんですかね。場所が分かれば探します」
「新川鼻よ、新川鼻・・・」
ところが、運を天に任せた人は強い。私は自分のことながら、なんとラッキーな男よ、と喜んでしまいました。
翌日のこと。なんと太田隊長、斉藤福隊長、末隊員の3名からなる探検隊が、私の知らない間に大冒険を敢行。およそ80メートルに及ぶ新川鼻の大絶壁を数時間も費やして下り、詳しく地層地質を調査しながら水際に下り立ったことを聞きました。帰りは戻れない。そのまま携帯電話でよしまる荘の船を呼んで脱出するという離れ業をやってのけたのですが、その間、重大な発見をしました。それは海中遺構の近くに大きなガジュマロの木が目印になるお嶽があったという池間さんの証言が真実であったことが証明したことです。
「一抱えもあるガジュマロの切り株があった」
「大きな池もあった。ただ、3体の石は鈴木さんに見て貰わないとわからないけど、あることはあった」
水中遺構、あるいは海中遺構を見下ろす高台の上に大きなガジュマロの木が聳えるお嶽があった! これは大変なことになった。水中遺構を拝むお嶽なのか、それとも、宇良部岳を拝むお嶽なのか。どちらとも判断しかねるが、基本的な構図が見えてきたような気がしてきた。この先、どうなるのか。急いで検討を進めなければいけないことになった。
与那国島海底遺跡プロジェクト
|