kitombo.com | 海賊の話 | 2004年1月5日 
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海賊の話
「最後の遣唐使」

裏小路 悠閑
1月5日

 嵯峨・淳和・仁明と皇位は珍しくも自律的に継がれて、親政三代の時代と言われておりますが、空海などの入唐僧や留学生たちがもたらしたものによって、宮廷では唐風でなければ夜も日も明けぬ空気が漲っておりました。
 こうした気運のまっただ中に仁明天皇が即位し、承和(834)と改元されるや匆々に遣唐使派遣が決定されました。大使には中国文学に明るく、書でも高名な参議藤原常嗣(つねつぐ 39歳)が、副使には「白楽天」に並ぶと評判の詩人にして歌人、従五位下の小野篁(たかむら 33歳)が任命され、四隻の船の建造も始められました。
 当時の人たちは知る由もありませんが、この承和度の遣唐使の後、もう一度派遣の発議はなされましたが、その時には唐は滅亡の淵にあり、菅原道真の諌奏によって立ち消えになった経緯があり、従ってこれが最後の遣唐使となります。
 そして如何にも最後の遣唐使に相応しく、まことにイベントフルであります。

 大使・副使の任命と同時に、幹部随行員の顔ぶれも決まりましたが、当時の仏教界の事情を反影して真言宗からは真済と真然の二人、天台宗からは最澄の弟子円仁(えんにん 43歳)と円載の二人が加わっております。
 後に慈覚大師と諡されたこの円仁は、天台山への巡礼を志していたのですが、同行の遣唐使とともに帰国する請益僧の資格での入唐であったため、時間がないと言うことで旅行の許可がおりませんでした。帰国の途中で密入国・不法滞在を決意して実行、朝鮮僧の示唆により目的地を北方の五台山に変更し、非能率な役人たちに悩まされ乍らようやく聖地に辿り着いて教えを受け、武宗の仏教弾圧など幾多の困難を乗り切って、およそ十年の後に帰国するという離れ業をやってのけ、延暦寺の権威を不動のものにします。

 遣唐使任命から二年後の承和三年(旧暦)七月二日、準備調って漸く大海に乗り出しましたが、程なく強風がおこって第一船・第四船はともに九州北西岸に吹き戻され、第二船も同様な状況下にあることが報告されて来ました。
 そして、第三船はバラバラになって、肥前と対馬に漂着しました。
 この船には真言宗の留学僧が二人乗り込んでおりましたが、彼らは調査に来た太宰府の役人に息も絶え絶えに報告しております。
 「舵は折れ、外板は破れて水船となったため、溺れるもの多く、船頭以下百四十人の者は、波に任せて漂流するばかりでした。この船の責任者・判官『たじひの文雄』が皆に諮って言うには、このままでは全員が餓えと乾きで死んでしまう。船を壊して筏を作り各々が分れて水を求める外に道はないと言い、録事以下みなが争って船板を剥ぎ取り筏を作り去って行きました」
 この二人の留学僧とは三十数名が筏をともにしておりましたが、生き残ったのはこの二人だけという惨状でありました。
 朝廷では「真言宗の留学僧二名が漂流の挙げ句に漸く生還しているが、このようなことは船上では縁起が悪いとされているので、たとえ真言僧は人を代えても絶対に乗せてはならない」と命令しました。前年に空海を失ったばかりの東寺は慌てました。
 代替えの留学僧派遣請願の表を奉ったのは当然ですが、その文末には脅迫めいた  「国家が真言の鎮護国家の修法や読経を必要としないのであれば致し方ありませんが」
という一文が付け加えられていました。
 結局、円行と言う真言僧の渡唐が認められました。

 天皇は、運良く帰投した三隻の船に修理を施しての再度の渡航決行を勅し、大使常嗣は恭しくお受けしました。

 承和四年(旧暦)七月二十二日、三隻の船は再度の渡海に乗り出しましたが、第一船と第四船は壱岐に漂着、第二船は破船となりながらも五島列島に辿り着きました。
 天皇の側にも反省すべき点がなかったわけではありません。これまでは渡唐の安全と成功を祈念するのに、慣例によって古来伝統の神々にのみに祈りを捧げて来たが、以後はより国際的に効験のある、仏教の教典や仏に念ずるべきであると悟ったわけです。
 大使常嗣の強い要請もあり、国分寺や国分尼寺へは勿論のこと、津々浦々の寺々に勅して、遣唐使が帰国するまで、継続して大般若経と海龍王経を読誦する様に命じました。
 とにかく天皇はメゲません。
 絶大な精神的支援を受けた遣唐使たちは、三回目の渡航をしますが、今回は出港時季を早めて、承和五年(旧暦)六月二十三日に、第一船と第四船の二隻で乗り出しました。
 副使・小野篁の第二船は出港する様子が見えません。
 遣唐使の出発を見定めるために、天皇は特使を現地に派遣しておりまして、彼は副使は病気の為出発出来なかったと報告しましたが、時を経ずして仮病であったことがバレてしまい、年内に皆がその全貌を知ることになりました。

 そもそも遣唐使船の建造に際しては、どれを大使の座乗船にするか決めており、第一船は大使に、第二船は副使にとなっておりました。
 二回目の遭難時に、副使篁の第二船は損傷が小さく一番状態が良かったのが仇になりました。大使常嗣は天皇を抱き込み、勅命による神託の結果を言い立て、職権を笠にきて、篁の第二船と破損の大きな自分の第一船を、強引に交換させてしまいました。
 剛直で知られ、政治的に立ち回ることが下手な未だ若年の篁は、この尋常ならざる状況下で、常嗣とはことごとに衝突していたのではないでしょうか。おまけに汚い手を使って船を取り上げられた篁の憤りは判る様な気がします。
 篁が「西道謡」という詩をものして憤懣をぶちまけたため、嵯峨上皇が激怒して裁判にかけました。判決は、勅命に違反したその罪は絞首刑に値するが、一等減じて官位を剥奪して庶民に落とし、隠岐に遠島となりました。
 和漢朗詠集巻下 688、 小倉百人一首 11 (隠岐に流される時に詠める)
    わたのはら 八十島かけて漕ぎいでぬと 人には告げよ海人の釣り舟 

 大使常嗣の第一船と第二船は、揚子江河口の北辺へ漂着座洲して破船となり、篁が乗船拒否をした第二船は、判官・藤原豊並が指揮して山東半島の根元の部分に、遅れはしたが到着しており、皮肉なことに、この第二船のみが無事に航海をして帰国しております。
 入唐時に船を失った大使の一行は、九隻の新羅船を雇い、艱難辛苦の航海をして、承和六年(839)八月十日ようやく帰国しました。

 大使常嗣が帰国して半年程の後、仁明天皇は皇太子時代に家庭教師であった篁の境遇を哀れにおもい、都に呼び戻し、一年後にはその文才を惜しんで元の官位を回復してやっております。
 その死の直前には、常嗣と同等の官位と役職に就いております。

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