kitombo.com | 海賊の話 | 2004年1月19日 
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海賊の話
「セラミック・ロード」

裏小路 悠閑
1月19日

 脇道に入り込んでしまって、中々「海賊の話」になりませんが、神道とともに日本人の心の底を流れるものとなる仏教をもたらした唐との交流は、どうしても触れて置かねばならぬ、と思い込んでおりまして抜け出せぬのです。今しばらくの御猶予を。

 遣唐使はもはや派遣されることは無くなりましたが、唐との交渉が途絶えたわけではありません。最後の遣唐使派遣が派遣された頃から、経済が発展する唐からは海商たちが足繁く直接日本にやって来ておりますし、新羅の海商たちも日・唐・新羅の三角貿易に従事して、日本人の需要に応えております。勿論、日本の仏教界も彼らから大きな便宜を受けておりましたから、遣唐使の廃止による打撃はそれほど大きくはなかったのです。
 西域からの珍奇な品物も、唐の書物も薬種も、当時南蛮と呼んでいた東南アジアの香木も織物も舶載されてきまして、そのうちの最高級品は朝廷に献上されました。

 当時広州や福健省泉州には、「蕃坊」と呼ばれる十万人を超える西域の海商たちの居留地があり、この二つの港湾都市がペルシャ湾頭に発するこの長大な航路の終点となっておりました。そして、日本を含めてこれより北の地への交易品の輸送は、専ら唐と新羅の商人が行ったわけです。

 いわゆるシルクロードを経ての東西交流は、紀元前二世紀頃に始まり唐代の八世紀まで続いたと言われており、その成果は廻り廻って日本にも、「ほんの少し」は流れて来たのでしょう。
 近年の日本人のシルクロード好きは、教養に欠ける私には異常にも見えますがね。
 当時の辺境に位置し、入って来たものもごく僅かであることが、余計にロマンとやらを掻き立てるのでしょうか。直接この交易に関係のあったで国々では中華人民共和国を含め、これ程熱中している民族は、どこにあります?

 とにかくアジアの各地の特色ある文化と産物は、長い間、沙漠のオアシス都市を結ぶシルクロードによって「細々と」運ばれて来ました。そして問題は、主な輸送手段であるラクダ一頭に積める荷物の量はどの位であったのか、と言うことです。
 200キロ? 300キロ? 大目に見ても、百頭を擁する隊商の運送量は30トン。
 ラクダの積載量は当然旅の長さや状況に左右されるでしょう。長期間に及ぶ旅行の間には、人とラクダの為に何回も長い休息期間を置かねばならず、また幾つもの国境を通過する度に支払う関税や賄賂、炎暑、酷寒の沙漠での生命維持のため、あるいは保安の為の装備も必要です。こう言った装備や食糧飲料水の占める重量や容積を考慮しますとと、目的地まで損傷もなく完全輸送された商品はどれほどの量になったのでしょうか。
 そして、これらは全て輸送コストを押し上げます。
 この高コストを負担できる商品となると、その種類は非常に限られた物になります。
 文化や技術の様に無形の物も、植物の種子も運ばれて来たことは疑いませんが、当時の一般庶民の生活に、「シルクロード」はどれほどの影響を及ぼし得たのでしょうか。

 紀元前三千年とも四千年とも言われる昔に、メソポタミアの地にシュメール人やアッシリア人が都市国家を建設して、覇権を競い合っておりましたが、彼らはインダス川流域に開花した文明の地と、海上交易をしていた事実があります。
 また、紅海沿岸地域に住む者たちは、北インド洋に起こる季節風を利用して、シバの女王やソロモン王の時代以前から、東アフリカ沿岸の地や印度西岸と交易をしておりましたが、その権益を守るためこの季節風の循環については秘密にしておりました。
 ローマ帝国が紅海にまで覇権をのべるに及んで、ローマ市民(必ずしもイタリア人とは限りません)の知るところとなると、季節風循環は共通の知識となり、ローマと印度の間の交流が始まり、奢侈品を求めるローマからは印度に向けて黄金が大量に流出します。

 一方、東南アジアと印度との間にも、一・二世紀には海上交通が開けていて、仏教の伝播が起こり、後にスマトラ島にはシュリーヴィジャヤという強大な仏教国が興ります。
 また、メコン川下流域に「扶南」という国があり、そして漢帝国は現ヴェトナムの北部に日南という行政区を維持していて、チャム族の国「林邑 チャンパー」と境を接しておりまして、南の島嶼の強大国との間で交流があったに違いないのです。
 時経て、唐の時代にはインド洋の二つの独立した航路は結びあって、西はバグダッドに発し、チグリスユーフラテスを下って、印度・セイロン島・スマトラのパレンバン・ヴェトナムを経由して、広州と泉州に至るという一大航路が出来上がりました。

 西域の海商が使ったのは「ダウ」と呼ばれる船で、外板を椰子から採った繊維で繋いだものを、木釘で骨材に固定して、漏水止めには、この地に産するピッチを塗りました。
 何か危う気な船体の様に聞こえるでしょうが、思いもかけぬ程に結構な堪航性がありまして、一本あるいは二本のマストに三角形の縦帆を張り、風上への航行性能の良い船です。現在でも船体構造は殆ど昔のままに、補助機関としてディーゼルエンジンを備えて、ペルシャ湾や紅海、東アフリカ沿岸の交易に多用されており、バーレーンやあの辺りの入り江や港には「よくもこれだけのダウが!」と驚嘆するほど集まっておりました。
 恐らく事情は今でも変わらぬと思います。イランやイラクへの経済制裁が続けば、ダウとその乗組員は仕事にあぶれることはないのです。
 西域の商人が使ったダウは、大きなものになると重量で250トンも積めるものがあったようで、一隻で八百頭を超えるラクダの輸送力に匹敵するわけです。
 海難や海賊の危険は避けられぬにしても、それを上回る輸送コストの低下は驚異的で、まさに大量輸送時代の幕開けと言って良いのではありませんか。
 陸路では採算上運び得ない、陶磁器などの重量のあるもの、嵩高で運賃負担能力の低い品物も船なら運べるわけで、シルク・ロードに対してセラミック・ロードと呼ばれるのはご承知の通りです。
 唐時代、シナ人たちは未だ自分で船を仕立てて、直接西域まで出かけることはしておりません。
 彼らが、ジャンクと呼ばれる堅牢な構造船を開発し、羅針盤を装備する様になる十世紀末からは、まさに大航海時代と言ってもよい状況が現出します。

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