当然ながら、あの時代にセラミック・ロードなんて言う洒落た名前があったわけはありません。ここでは「南蛮航路」とでも呼んでおきましょうか。
この航路は品物を運んだだけではなく、人も運んでおります。
円仁の「大唐求法巡礼記」の様な詳細なものではありませんが、それでも魏時代の法顕や唐時代の義浄など、印度への留学僧たちがこの航路についての貴重な記録を残してくれております。
日本が未だ古墳文化と言われる時代にある399年に、法顕は六十歳を越える身ながら同学の僧四人と共に、陸路印度に入り勉学修行の後、復路は南蛮航路を船を乗り継いで帰国しております。航海の最後の部分は412年に二百人乗りのインドネシア船らしきものに乗って、八十日間の難航の末からくも山東半島に漂着しております。
仏教僧たちの印度留学は、唐代前半が最盛期で、結局数十名の僧たちが片道、あるいは往復とも海路によって印度に往来しております。
かの有名な玄奘三蔵は、往復とも陸路を辿っておりますから、その高い業績にもかかわらず、本題には取り上げません。
義浄は若年にして仏門に入りましたが、後に仏典にあやまった解釈がなされていることを知りまして、印度への留学の必要を痛感しました、671年に長安を発って広州に赴き、単身印度へ向けて渡海しました。この時三十二歳。十数年にも及ぶ印度での勉学を終えて、当時仏教の盛んなシュリーヴィジャヤ王国に渡りました。同国に滞在して仏典の翻訳中に、広州の友人への手紙を託そうとして広州に向かう商船を訪れましたが、この船の船長が、待ち焦がれていた順風が吹いたと言うことで、いきなり帆を上げて義浄を乗せたまま出港してしまいました。大量の貴重な仏典を残したまま、義浄はそのまま広州まで連れて行かれてしまったのです。
義浄にとっては良い機会であったのかも知れません。彼は広州でシュリーヴィジャヤへ同行して翻訳してくれるボランティアを募集して、四人の学僧の協力を得ることができました。シュリーヴィジャヤへ取って返して事業を続け、694年に帰国しております。
義浄の業績は絶大で、日本人がえた利益ははかり知れません。
そして、義浄は「波斯(ペルシャ)船」に便乗したと言います。
シナの僧のみならず、新羅の僧も困難な旅行をものともせず、印度へ留学しておりますが、日本人僧で印度に入った者はおりません。
宗門の求めるところが急であった為、印度まで行くだけの余裕がなかったのかも知れません。現代にも通ずることですが、自然環境も社会環境も全く異なる見知らぬ土地で、しかも、遥か遠い昔に発祥した宗教を、遠大な時空の隔たりを飛び越えて信ずるということは、生なかの事では有りません。
そこに巡礼の意味があるのではないでしょうか。ユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラム教徒も、信仰を確認するために、今も巡礼を続けております。
ただ、日本人にも行こうとした人はおります。
真如と言う人で、俗名は高岳(たかおか)親王。
高岳親王は、平城天皇の御子です。
怨霊に悩まされ続けて病の癒えぬ平城天皇は、いやがる弟に皇位を譲り(809)退位してしまいました。心ならずも即位したのが嵯峨天皇で、高岳親王を皇太子に立てて、極力上皇側と融和をはかりましたが、上皇平城は政治権力を手放す気に成れず、平城京に院を移して事実上二つの朝廷が並びたつことになりました。平城上皇は平安京を廃して、平城京への再遷都を命ずるなど、天皇の権威をないがしろにして混乱を招きました。
結局、上皇の反逆的行動は武力で抑え込まれて、多くの院司たちは処分され、上皇は出家して事は治まりましたが、高岳親王は皇太子を廃されてしまいます。
親王は出家して法名を真如といい、東大寺で勉学した後に、空海を師として密教を学びました。
847年には円仁が帰国して延暦寺の隆盛を招き、858年には円珍が帰国して園城寺を再興しました。こうした人たちの活躍は、真如法親王の身近に起こったことでありまして、大いに刺激を受けたことは間違いないでしょう。
真如は、印度(天竺)の聖地巡礼を決意しました。
そこはそれ、何と言っても高貴の出でありますから、二十数人もの従者を引連れての旅立ちであります。旅費や滞在費を賄うために、高価品を山ほど持って行ったに違いありません。
円仁の帰国した頃から、唐船が頻々と来日しておりますが、九州の北西岸は中央政府の威令の及び難い辺境である上に、密貿易や海賊の基地には打ってつけの地形を持っております。正式な入国手続き踏まない来航者は多かったでしょうし、密輸品や海賊行為の結果の掠奪物も、博多に運べば簡単に処分できたと思います。
貞観三年(861)真如の一行は博多から船出しておりますが、素性正しい新羅船か唐船のどちらかに乗ることができたのでしょう。
博多を出て壱岐に向かいましたが、風向きか何かの都合が悪かったのでありましょう、壱岐水道の馬渡島(まだらじま)に仮泊しなければならなくなりました。ところがこの島には多くの漁民が住みついてることが判り、彼らが海賊に早変わりするのではないかと、非常に恐れたわけです。この地での仮泊を断念して、唐津湾の外縁にある神集島(かしわじま)に移動しております。
海賊の危険は、日本の沿岸だけではありません。
多くの危険を困難をかいくぐって、一行は広州につきましたが、ここで真如は従者たちとはぐれてしまい、独り南蛮航路の船に乗り、866年頃、羅越国・現在のシンガポール付近の宿で、看取る者もなく没したと伝えられております。
真如は当時七十歳を越えていたはずで、多数の従者たちは一体何をしていたのだろうか、と気になります。