紀貫之は、可哀想です。
その意図が何であったのか知りませんが、影響力を持った正岡子規が「貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候」と言い、「王朝の文みだりに綺麗を喜び、気迫・精神、一のますらおらしきものなし」と与謝野鉄幹が言いましたから、以来貫之の文学的地位は地に墜ちてしまったのだそうです。
文学にはおよそ縁のない私ですが、それでも、紀貫之は可哀想です。
貫之も、子規も鉄幹も、批評家の先生方も、みな時代の子でありまして、その制約は免れ得ないのです。後の世の評価など、どうなることか判ったものではありません。
現に流行の風が吹き変わって、子規の時代から何程も経たぬに、美人俳諧師のM.M.嬢や「サラダ記念日」のT.M.嬢の活躍の様を見れば、彼らは何と言います?
「海と船と海賊」をキーワードに、これから歴史に親しもうとしている私には、「土佐日記」を残してくれた紀貫之は、とても有り難いお人なのです。
貫之の時代、精緻に調った律令の官制も、裏に廻れば血縁と情実が複雑にからみ合った制度に外なりません。藤原氏に属さぬ中級下級の官人たちは、引き立てを求めて権勢家に近付き、主従の約を結んで物を贈り、気配りをして雑用をはたすことで、除目に際しては推挙を得て、より高い官職にありつこうと努めました。
貫之は歌を詠むという才能をいかして、権門勢家の人々の求めに応じて、歌の代作も盛んに行い、参議中納言に進む藤原兼輔の引き立てを受ける様になります。
ちょうど和歌にも商品価値がでてきた時代に、貫之が居合わせていただけです。
ひどい人になると、貫之は「幇間」だなどといいますが、その様なことを言うことで御飯を頂けるのは有り難いことであり、貫之に感謝しなければいけません。
日頃の努力の甲斐あって、貫之は四十五六歳になって漸く従五位下に叙され、貴族の端くれに名を連ね、大いに喜びます。
「令」には官位相当の原則と言うのが有りまして、官職に就くにはその職に相応した位を既に持っていなければなりません。
当時、六位から五位に上るということは、別世界に入ることでありました。
五位に昇れば官職に就いていなくとも、位田が八町が貰える上に、位禄として粗絹布・綿・布が支給され、季禄といって年二回季節の変わり目に位禄と同様なものが支給され、その上に位分資人といって、従者が二十人も与えられます。
六位以下では季禄が少し貰えるだけで、外の禄は一切有りませんし、就くことのできる官職にも雲泥の差があります。
延長八年(930)の除目で土佐守に任ぜられました。律令制にあっての土佐の国は、大国でも上国でもなく、室戸と足摺の嶮岨な二つの岬によって遮断され、四国山地を背負うことで外界との交流は困難がつきまとっておりましたから、隠岐や佐渡と並んで罪人を遠流にする程の土地であります。
貫之は、豊かな老後の生活設計を思い描いて、受領になるのを夢見ておりましたが、土佐の国司に除目されて、実のところ相当に落胆した様です。
しかし、藤原一門でない悲しさで口に出すわけには参りません。それでも悪いことばかりではなかったでしょう。
前にお話した、嵯峨・淳和・仁明のいわゆる親政三代の頃には、未だ勧農に努め、困窮者の救済に力を注いだ国司もおりましたが、貫之の時代lには良吏は地を掃らい、受領(国司の長官)と言えば、その実体は徴税請負人に外ならず、彼らは任期の四年分の租税を完納しさえすれば、後は自分の裁量次第で莫大な利益を上げることができました。
貫之が富裕になったかどうかは知りませんし、善政を布いたかどうかも明らかではありません。
ともかく、貫之は任期を大過なく勤め上げたようです。帳簿と実状の間に違いがあり過ぎて、新任の国司との間で揉めることの多かったこの時代、貫之は引き継ぎをスンナリ済ませて、懐かしの京に帰ることになりました。
律令制が布かれる以前に、既に高知から真北に向けて山を越え、伊予の海岸まで通ずる古道がありました。律令体制が完成してからは、現在の J R 土讃線と全く同じ経路で、吉野川沿いに阿波徳島まで大路が開通してはおります。
しかし、大路とは名ばかりの道です。女子供に家の子郎党を引連れ、蓄えたであろう財物を携えて、真冬の四国の脊梁山地の彼の有名な難所を越え、阿波の国までの長丁場を行くことなど、思いもよらぬことであったでしょうし、仮に阿波あるいは讃岐に無事に着いても舟に乗らねばなりません。土地勘の無い所で、信用の置ける舟を何艘も雇えるかどうかは、大きな賭けでもあります。
貫之は土佐から海路を行くことにして、承平四年(934)十二月二十一日、国府を後にします。京の自邸に辿り着いたのは翌年の二月十六日ですから、実に五十五日の長旅でありました。
貫之が何故、女に仮託してこの日記を書いたのか、先生方はいろんな説をたてておられますが、私には関係ないことで、恐らく長旅の無聊を紛らわすために書いたのだろう、くらいに思っておるわけです。
当時の生活習慣や、貴人のメンタリティなど面白く読み取れはしますが、惜しむらくは、舟を雇うに際してどの様な契約をしたのか、何を以てどのような支払い方をしたのか、使った舟の大きさや構造、何隻の舟に何人乗り、船員は何名であったか、積み込んだ品物はどんなものがあったのか、一切書かれておらぬことです。
鎌倉時代の絵巻物に描かれた、比較的大きな客舟と見られる舟は、船底部分は大木を刳りぬいた丸木舟で、それに継ぎ足す様にして外板や屋形を造り付けておるのが、ハッキリと判ります。
貫之の雇った舟も似た様なものではなかったか、と想像しております。