kitombo.com | 海賊の話 | 2004年2月9日 
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海賊の話
「土佐日記  その2」

裏小路 悠閑
2月9日

 土佐日記は、かの有名な『男もすなる日記といふものを、女もしてみんとて、するなり。・・・・』で筆が起こされ、五十五日間京に着くまで、それがたとえ一行であっても、一日も欠かさず書かれております。

 十二月二十一日、別れを惜しむ人々が、あれこれと世話を焼いてくれいるうちに日が暮れてしまい、午後八時頃国府の館を出て、船着き場「大津」に向かって出発しました。
 このあと一行は、舟の上で寝起きしていたのであろうと、日記の内容から想像できますが、終点の山崎に着くまでは、具体的に何も書いてはおりません。
 二十二日、和泉の国までの旅の無事を神仏に祈っております。
 何故に和泉の国までなのか、後で判ります。
 この日からは、別れを惜しむ人たちがやって来たり、招待されたりで、別離の宴が連日催され、二十六日までの五日間を大津に泊って過ごしております。
 「多くの場合、国守が任期を終えて帰京する時、国人や後に残る者たちは、もう用はないとばかりに、知らぬ顔をするものであるが、これほど別れを惜しんでくれるのは、前の国守の人柄の故であろうか」と貫之はヌケヌケと記しております。
 この時、貫之は六十四五歳になっておりましたから、再びこの地に来ることも、人々に会うことも出来ぬ、と言う感慨があっての別れの仕方であったのでありましょう。

 二十七日、『大津より浦戸をさして漕ぎ出づ・・・』
 ようやく、川を下って浦戸湾に向かいましたが、なに程も行かぬうちに、国守の兄弟や様々な人たちが酒肴を携えて追ってきたので、上陸してまた酒宴となりました。
 互いに、別れの辛さを歌に詠みあって、延々と時を過ごします。

 が、「もののあはれ」を全く解しない楫とり(かじとり、以下船頭)は、おのれが呑みたいだけ酒を呑んでしまうと、先を急ごうとして『汐みちぬ。風も吹きぬべし』と騒ぎ立てたので、やむなく舟に戻り、その場に居合わせた人々と互いに、別れに相応しい漢詩の朗誦をしました。
 その夜は浦戸に泊りました。

 さて、その「もののあはれ」を解しない船頭ですが、日記を読み進むと、土佐から終点の桂川は天王山の麓の山崎の津までの航路や水路に詳しく、運航には慎重な気配りをし、停泊すべき湊や波止場の事情に通じていることが、はっきりしてきます。
 勿論、貫之は殿上人でありますから、讃辞めいたことは書きません。

 中央政府に納められる税は、七世紀末から唐制に倣って、成人男子に課せられることになった人頭税である「調」と、労役の代りに米や土地の産物で納めることになった「庸」であります。双方ともに物納でありますから、相当な量になった筈です。
 舟運が利用できる土地であれば、調庸の輸送に舟を利用するのは当然の成りゆきでしたし、南海道・山陽道・西海道の諸国からの輸送は、舟運によるとする制度も定められました。貫之の船頭も、土佐と京の間を何度も往き来し、この航路の業務に習熟したプロであったのではないかと思うのです。

 貫之たちが、この舟と船頭や舟子(ふなこ・水夫)どもを、どの様な条件で雇ったのか判りません。舟の使用料と共に船頭舟子には一日当たり幾らの報酬としたのか、あるいは、航海の成就をもって支払ったのか、半額前払いなどを組み合わせたものだったのか、など色々と想像を逞しくしているのです。
 『といふあひだに、楫とり、もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば、はやく往なんとて、・・・・・』と貫之はこき下ろしておりますが、もし一航海幾らの約束であれば、船頭がせき立てても当然だろうな、と思いますし、義務感もあったでしょう。
 二十八日、浦戸から漕ぎ出して、約8キロ東、物部川の河口にある大湊に着きました。
 二十九日、大晦、この年の十二月は小の月。大湊泊。
 年が明けて、元日から七日まで、風が吹いたので、大湊に泊っています。

 国府から大湊までは、ちょうど片仮名のコの字を逆にした行程を辿ってきたことになりますから、国府からは真南に何程の距離もなく、正月と言うことで国分寺や地元に住まう名家の差し入れを受けて、子供から舟子までもが全員がたらふく食った、と満足げに書いております。

 八日、風は止んだが、物忌みの為、出港しない。
 そうです。物忌みという習慣がありました。
 九日、50キロ程先きの奈半(なは 現在の奈半利町)を目指して、夜明け前に大湊から漕ぎ出しました。ここで見送る人も最後となり、切なさが伝わってきます。
 櫓櫂でゆく舟にとって、50キロは長丁場です。経験上申し上げますが、櫓を押すことはオールで漕ぐよりも体力的には長続きはします。とは言っても交代要員は必要でしょう。もし二挺櫓で進む舟であったら、二三人の舟子は乗せていたのではないでしょうか。
 あの辺りは、遠浅の海岸で大きな磯波が立ちやすく、今ではサーフィンを楽しむ人が集まる所です。貫之たちは、岸にへばりついて這う様にして進むのですから、横波を受けて大変だったとおもいますよ。
 それでも陽のある内は、宇多の松原というところに鶴が舞う趣のある景色などを眺めて、気もまぎれておりましたが、夜になってもまだ舟を漕いでいます。
 夜も更けて、山も海も、西も東も見えなくなると、男でもその心細さは例えようもなく、まして女は舟底に頭を押し付けて声をあげて泣くばかり、と記しています。
 こうなると、国守として権力を振るってきた貫之も、海の上では船頭に任せてしまうしかないと、ようやく思い定めた様です。
 『夜ふけて、西東も見えずして、天気のこと楫とりの心にまかせつ。・・・』
 船頭や舟子は、そんなことは気に掛ける様子もなく、いろんな舟歌を唄っています。
 舟歌を面白がって人が笑うのを聞いて、海は荒れているが、心は少し穏やかになった、と書いています。
 なんとまぁ、心にくいことをする船頭どもではありませんか。

 この様に一日中行き続けて、奈半の泊りに着きました。

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