十日、奈半泊り。
十一日、夜明け前、人々がまだ寝ている間に、約24キロ先、室戸岬の突端にほど近い室津(現在の室戸市)に向けて漕ぎ出しました。
『かかるあひだに、みな夜明けて、手を洗ひ、例のことどもして、昼になりぬ。』
舟で起居して行う決まりきったこと、とはどの様なことであったのでしょうか。
私などは掃除して、飯を食うこと位しか思い付きませんが、そこはそれ、貴人のことですから、十分に時間を掛けて神仏に祈りを捧げ、香を焚いて身繕いして、髪の手入れでもして歌の一二首詠んでとか、色々あったのでしょう。
ともかく、その日の内に室津には着いたようです。
十二日、室津泊り・・・大津での乗船から数えて二十日目、約85キロの旅です。
貫之の一族か従者たちなのか判りませんが、遅れていた「ふんとき」と「これもち」の舟が、この室津で合流しました。この二人が一隻の舟に同乗していたのかどうかは判りません。二隻以上である様には感じられるのですが。
十三日、室津泊り。
夜明け前に、ほんの少しだけ雨が降って、止みました。
女たちは誰もかれもが、水浴をしようとして川辺におりて行きました。
舟に乗った時から、海の神の祟りをおそれて、濃い紅色の衣を着ることがなかったのですが、目隠しにもならぬ程の葺にかこつけて、かまうものかと身にまといます。
平安時代は温暖な気候が続いていたらしく、京にあっては瘧(ぎゃく おこり)と呼ぶマラリアとおぼしき病が流行しているほどです。それにしても、大した防寒衣料も無かったであろうに、貫之は寒さについて一言も書いてはおりませんし、風邪をひいたなどの不具合も載せておりません。余程寒さに強かったのでしょうか。
しかし、今の暦でいえば二月で、一番寒い時季に水浴とは。
湯浴みなどの習慣の無いこの時代、貴族たちは日常香を焚きしめたりして、誤魔化しておりますが、さすが狭い舟に閉じ込められての生活が長くなって、息がつまる程になったのでしょうか。
十四日、室津泊り・・・節忌(せちみ)のこと。
月の八・十四・十五・二十三・二十九・三十の日は、殺生禁断の日で精進潔斎をしなければなりません。従って貫之も精進するのですが、精進料理の材料が欠乏しているので、半日で切り上げ、船頭が昨日釣り上げておいた鯛を、銭がないので米をやって求め、精進落ちをした、と書いております。
こうしたことが度々あって『楫とりまた鯛をもてきたり。米・酒しばしばくる。楫とり気色あしからず』 米・酒を手に入れた船頭の機嫌は悪くない、と言っておりまして、船頭のニンマリ顔が目に浮かびます。
当時、銭は限られた範囲でしか流通しておりませんで、僅かに京と畿内(摂津・山城・大和・河内・和泉)とその周辺で、税の銭納が一部行われている程度でした。
貫之が銭の手持ちがないと言っても、一向に不思議ではありませんが、銭に対する意識は随分広がっていたようで、船頭舟子が唄う舟歌のなかで『夜んべのうないもがな 銭乞はん そらごとをして おぎのりわざをして 銭持て来ず おのれだにこず』
「ゆうべの子供を見つけ出して銭を取ってやろう 嘘をついて掛け買いをして 銭を持ってこなけりゃ 顔も見せない」と言うのを貫之が聞き書きをしております。
十五日、室津泊り。
一月十五日には、一年の邪気を払うため小豆粥を食べる風習があり、小豆が無かったのでしょう『今日小豆粥を煮ず。口惜しく、・・・・』と残念がり、ついでに舟が進まず、ただ徒に日が過ぎるので人々はなすこともなく、海を眺めてボンヤリしている、と苛立っております。
貫之の舟には、どのくらいの食糧が、誰の責任で積まれていたのでしょうか。
船客の食糧と食事の手配は、船頭に依託されていた可能性はあります。
また、ひょっとすると何かの為に、食糧が犠牲になった可能性も除外できません。
元日のお節料理も十分ではなかったようですし、節気毎の食べ物にも不自由している様です。湊や、波止場に泊っている間の、土地の者とのバーターによる食糧調達は書かれておりませんが、従者たちがそれなりに立ち働いたのではないでしょうか。
十六日、室津泊り
早く御崎という所を越えたいとばかり思っておりますが、風が止まない。
十七日、室津を出て、戻る。
雲がはれて、夜中に漕ぎ出しました。十七夜の明るい月の趣が深く、歌を詠みあっている内に夜が明けました。
『楫とりら「黒き雲にはかに出て来ぬ。風吹ぬべし。御舟かへしてん」といひて、舟かへる』船頭たちは天候の急変を感じ取って、室津に舟を戻しました。この間に雨が降り出しました。貫之は『いとわびし』、ほんとうに情けないと言っております。
貫之の船頭たちは、慎重である上に、果敢に決断をすることも出来たようで、よき者どもを雇ったことは幸運であったと思います。
十八・十九・二十日、室津泊り・・・海は荒れつづけている。