kitombo.com | 海賊の話 | 2004年2月23日 
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海賊の話
「土佐日記  その4」

裏小路 悠閑
2月23日

 二十一日、室戸岬を回る。
 午前六時頃に舟をだしました。供の者たちが乗った舟も一斉に漕ぎ出したので、『これを見れば、春の海に秋の木の葉しも散れるやうにぞありける』と記しております。

 木の葉が散っている様に感ずるには、何艘の舟があれば足りるでしょうか。
 一二艘では論外で、三四艘でも「ちょっと」という感じです。ここでは少なくとも五六艘の舟がないと、木の葉が散ったようなという感興は起こらぬだろう、と感じますが、如何でしょう。
 一艘あたり何人乗っていたのか判りませんが、貫之の舟には、貫之本人と奥方らしき高貴な身分の老女一人、歌を詠めるほどに成長した少女一人、幼児が一人、京都の邸で使って欲しいと言って乗ってきた娘が一人、これに船頭と三四人の舟子、計十人程の存在は日記の内容から分っております。
 このほかに、貫之と奥方らしき人の身の回りの世話をする者が何人かと、炊事係やガードマン役の男も居たかも知れません。これらの男あるいは女たちは、子供達の親かも知れません。一人何役もこなしたにしても、この舟には少なくとも十四五人乗っていたとしても変ではありません。
 一族郎党と船頭舟子まで入れると、六十人を超える集団が、大量の貨物を携えての移動であったのではないかと想像しております。

 続いて貫之は、任地の土佐の国を出て以来すっと、海賊が報復しに来るという噂を聞いている上に、海がまた恐ろしくて髪がすっかり白くなってしまった、と書いています。

 その日の内に、次の停泊地に着いた様ですが、この泊地を含め現在の鳴門市鳴門町土佐泊浦に着くまで、なぜか途中の泊地の地名を書き記しておりません。
 文学的な技巧を言う人、虚構の証拠だと言う人等々、色々議論はある様ですが、比較的安全に停泊できる所は限られておりますので、定説は出来上がっております。
 室津を出てからは、47〜8キロの行程を一日で漕ぎ切って、阿波の国・甲浦(かんのうら)に安着したものとされています。以下泊地の地名は定説に従います。

 二十二日、甲浦を出て、日和佐に着く。
 二十三日、二十四日、二十五日、北風が吹き出してよくないので日和佐泊り。
 『このわたり海賊の恐りありといへば、神仏を祈る』
 『海賊のおひ来といふこと絶えず聞こゆ』
 二十六日、日和佐発、
 『まことにやあらん。海賊おふといへば、夜中ばかりより舟を出だして・・・』
 室戸岬を回った頃から、急に海賊が気になりだしています。
 海賊が報復するために襲ってくる、と言う噂に怯えておりますが、果たして任期中に海賊の討伐を行ったのかどうか、気になる所です。
 と言うのも、土佐の海岸線を見ると、地形的に海賊活動には不向きな所でありますし、辺境の地ですから、海賊が食指を動かす程に海上輸送が盛んであったかどうか。
 もっとも、貫之が旅路にある当時、古代最大規模の海賊騒動「藤原純友の叛乱」の前兆とでも言うべき海賊活動が、瀬戸内海を中心に起こっておりましたから、一行の海賊に対する怯えは故なきことではありません。

 班田収授はとうの昔に行われなくなり、場当たり的な土地政策と税制は有力者に都合よく出来ておりまして、王臣家や権門勢力者、富裕豪族に土地が集中し、その上に受領階級の収奪が加わりましたから、過酷な負担に堪えられず、田地を捨てて逃亡する者が多く出ました。人は生きるために、切羽詰まれば何でもするものです。
 食えそうな所へ流れて行き、京師にも多くの浮浪者が入り込みまして、群盗騒ぎが頻々と起こっております。また、権力者や大寺院が田地のみならず、製塩事業拡大の為に海浜の囲い込みも盛んに行いましたから、生活の方途を失った海浜に住む民は、海賊にもなろうと言うことです。

   国税の根幹をなす調と庸は、各国司の支配下にある郡司や富豪たちが徴税した上で、国司の指定を受けて、大蔵省や民部省への運送を請負う制度がとられておりました。この調・庸の京への運送「運京」と、寺領や荘園からの年貢が群盗や海賊の掠奪の目的になったのは当然ですが、九世紀になると事はそれほど単純では無くなりました。
 従来、運京の途中で、海賊や盗賊に襲われて被害を蒙った場合、運京の責任者は事件の起こった所の郡司に被害証明を出して貰い、大蔵省に提出して認められれば、被害額分の納税を免除されておりました。
 この被害が事実であれば、理に叶った処理のされかたでしょう。
 時経て、この制度を悪用する者が出て参ります。例えば、請負額を調達出来なかった運京の責任者(郡司や豪族)は、不足分を満たすために、他の運京の船や荷駄を襲い、略奪することもありましたし、あるいは、最初から運京の財物の一部を着服しておいて、海賊や盗賊の被害に遭ったと届ける等の、詐術を弄する者が増えました。

 貫之が土佐に在った四年の間に、京の都で起こったことを振り返ってみます。
 京の市中に流入した浮浪人による群盗が跋扈して、宮廷人も市民も震え上がっている所に、こうした海賊による被害届が中央政府に殺到しました。
 このような運京の被害は、単なる治安上の問題ではなく、国家財政にかかわる問題でもあるのです。
 虚実入り交じった報告を受けた朝廷は、実情が判らぬままに海賊の追捕使を定め、山陽道・南海道の諸社に海賊平定の祈願をし、東国の兵士を派遣して海賊の討伐に向かわせております。

 貫之は、海賊の報復のあることを、一貫して噂を聞いたとして書いていますが、若しそうなら、その噂の出所は船頭舟子でありましょう。

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