私にとって、一月三十日の夜中から決行された鳴門・多奈川間の航海が、この日記のクライマックスでありまして、この後に続く部分を読んでも、まるで月の無い「月の沙漠」を行く様なものです。貫之にしても、天気のことは依然として気しておりますが、文面には安堵感が滲みでております。
貫之の時代、多奈川から堺・住吉の辺りまで、白砂青松の美しい海岸が、眼の届く限り続いていたのでしょう、貫之は『松原、眼もはるばるなり』と言っています。
今は多くの場所で埋め立てが進んで、発電所ができ、コンビナートができ、関西空港島が現われて、昔の岸辺のただずまいを偲ばせるのは、僅かに浜寺公園と二色の浜の松林のみ。
二月一日、岸に沿って進む。貫之は途中の泊地の名前を記してはおりません。
昨日の夜中に鳴門の土佐泊を出てから、大いに距離を稼いで、一日の朝早く多奈川から北東に12キロ程の、淡輪(たんのわ)とおぼしき所に着き、一息入れて居た様です。朝のうち雨が降っておりましたが、昼頃には上がったので漕ぎだし、景色を愛でて歌を詠むうちに、急に風が吹き波が高くなってきたので、そこに泊った、と書いています。
海岸線が変わってしまっているので、「そこ」が何処であるか言えませんが、現在の阪南市か田尻町のどこかでしょう。
二日、三日、波風が荒いので「そこ」に留まっている。
四日、「そこ」泊り。
『楫とり「今日、風雲の気色はなはばあし」といひて、舟出ださずなりぬ。しかれども、ひねもすに波風たたず。この楫とりは、日もえはからぬかたいなりけり。』
貫之は、この船頭は、天気も満足に予測できない馬鹿者なのだ、とこき下ろしています。
都の匂いを嗅ぎとれる程のところまで来ての足踏みですから、貫之のいら立ちは判らぬわけではありませんが、これまでの船頭の見事としか言い様のない働きを考えれば、酷に過ぎるのではないかと思ったりするのです。
今、気象衛星を上げ、アメダスを網の目に配置してデータをとり、優秀な若者を気象大学校で何年も教育して予報官とし、国際的な連携と海上の船舶からの気象報告を受け、高速コンピュータを駆使して、それでもなお翌日の予報を見事に外すことしばしばなんです。
五日、「そこ」を出て、遠浅で櫓の使えぬ所は、引き綱で曳いて進みました。
住吉大社の前浜に来たところ、急に風が吹いてきて、漕いでも漕いでも舟は後ろに下がるばかり。『楫とりのいはく、「この住吉の明神は、例の神ぞかし、ほしきものぞおはすらん」・・・』
御幣を奉ったくらいではご承知なされず、風は吹きつのり、波はますます高くなって危険になってきました。何か神様が嬉しいと思し召す様なものを、差し上げなさい、と船頭が言うので、たった一つしかない鏡を、残念な思い一杯で、海に投げ込みました。
すると、急に海は鏡の様に凪いでしまったのです。
鏡を諦め切れぬ貫之は、この神様は船頭と同様に、欲が深いなと記します。
『楫とりのこころは、神の御心なりけり』
この夜は、難波の外海に泊った様です。
六日、水路標識(澪つくし 水脈つ串)の所から漕ぎ出して、淀川の河口に入りました。船内は喜びに沸き立ちますが、水涸れの為遅々として進まず、また物忌みの為泊まったりしたため、34〜5キロ先きの終点山崎の津に着いたのは十一日で、五日間を費やしております。
十二日から十五日まで山崎にあって、舟上での生活の不快をかこちながら、上陸せずにおり、十四日になって漸く、京に車をとりに人をやっております。
淀川河口に入った時の喜び様からすれば、前もって使いを出して準備万端調え、山崎到着と同時に上陸して、京に入ってもよさそうなものです。
この数日間の停泊については何の説明もありません。
困難な旅が終わって後の滞留は、現代人にとっては不自然に見えますが、上陸に相応しい吉日を待っていたのでしょうか。又この山崎の津は、舟運を陸送手段に替えなければならぬため、従来から混雑する場所でしたから、大量の荷物を運ぶための車馬や人夫、それと警護の為の人手を雇うために時間が掛かったのかもしれません。
更に言わせてもらえるなら、あと一つの可能性として、船頭たちとの間で報酬の支払いで揉めたのではないかということがあります。ことが成就すると、多額の支払いをするのが急に惜しくなって、紛争に発展することは間々ありますし、この場合は貴人と卑しい身分の船乗りたちの間のことです。もしそうなら、船頭たちは荷物を差し押さえる事で、解決したのではないかなどと、色々思いをめぐらします。
この日記は人に見せることを意識して纏められたものでしょうから、清書の前にはかなりな量の下書きがあったが、名誉にならぬ事柄はホゴにされたのでは、と疑うのですが、どうでしょう。
そして船頭舟子たちは、どうなったのでしょうか。彼らが土佐の運京に関わる者たちであれば、帰りの積み荷や乗客を集めるために、この後も働いたに違いありません。
帰ってみれば、頼みにしていた庇護者や友人の多くはこの世になく、貫之を迎えた京の表情はすっかり様変わりをしています。そして国家財政も苦しくなっていました。
諸国の受領郡司は、田地が耕作不能となったと申告し、調庸として粗悪品を選んで差し出し、その未納滞納は珍しくなく、調査の手が入ると判ると、官庫が神火に焼けて横領着服の証拠は消え去り、そして群盗海賊の掠奪がこれに加わりました。
大蔵省はたまったものではありません。
朝廷では重陽の節会や、内宴を取り止めるのが毎年の例になりました。
「令」による位禄・季禄なども、規定通りに支給されたかどうか。受領としてあくどい収奪をしたとも思えぬ貫之は、帰京後の五年の間、官職に付けずにおりましたから、蓄えを食いつぶしたのでしょうか、老骨を顧みず官職を求めて奔走しております。
齢七十になって、ようやく玄蕃頭(げんばのかみ 外国や僧尼のことを司る玄蕃寮の長官)に就任、七十二歳で従五位上を授けられ、七十四歳で木工権頭(宮殿の造営修理を司る木工寮の長官)に就任しており、これが貫之の最終官歴となりました。
天慶八年、秋に永眠。
それにしても、貫之は可哀想です。