アマテラスが岩屋戸に隠れた時、『ここに高天の原みな暗く、芦原の中つ国悉に闇し。これに因りて、常夜往く。ここに万の神の声は、さ蝿なす満ち、万のわざわい悉に起こりき。・・・・』 世の中は闇となってあらゆる悪しきことが蔓延り、神々も困り果てました。日本でも神代の昔から、足らぬものを有るところから、強奪して来るということをする者は居たに相違なく、古事記には盗賊や河賊の記述があり、それが海上や海を越えて行われれば、それは私達が海賊と呼ぶ行為にあたります。
ただ、九世紀の初め頃までの日本にあって、「賊」の字の意味するところは、国家に反逆する者を限定的に指していましたから、私どもが思い描く海賊の意味での「海賊」の語が使われ出したのは、それから後のことであります。
「続日本紀」天平二年(730)の記事に『京及諸国多有盗賊。或捉人家劫掠、或在海中侵奪・・・』「京や諸国に盗賊が跋扈している。人家を襲って掠奪をしたり、海上で船を襲って財貨を奪っていて、人民は甚だしい損害を蒙っている・・・」
海賊という言葉こそ用いていませんが、その本質は海賊に外なりません。
この後も、政府は海上で「盗賊」が活動していると認識しておりますが、838年になって突然の様に「山陽・南海両道の国司たちに、海賊を捕まえる様に命じた」との記録が現われ、もはや海の盗賊ではなく「海賊」であるとしています。
貞観四年(862)には、海賊は群れをなして往来の者を殺し、公私の品物を略奪する様になり、その年の五月には、官米八十石を積んだ船が海賊に襲われ、乗船していた十一人の百姓が殺され、米を奪われる事件が起こりました。
これは官米が大量に奪われた初めてのケースであったようで、朝廷は衝撃を受け、山陽・南海の各国の国司に海賊の追捕を下命しております。
この後も頻々と海賊騒ぎがあったようですが、追捕の効果はあがっておりません。
朝廷では、国司たちが海賊追捕に精励しないからだとして、今後海賊騒動が起これば、国司の罪として処罰するとし、海賊の捕縛数を報告させることにしました。
こうした取締令は毎年の様に出され、各国司は自分の管轄区域内については、それなりに精励しますが、海賊には移動の自由があり、国の範囲を越えて活動するので一向に効果があがりません。
漸くこの点に気の付いた朝廷は、諸国が共同で対策をとる様に命じ、かつ諸国の主要港湾への船舶と人の出入りを把握し、海賊の風聞でも聞いたら、各地が協力して追捕することを命じました。国によっては海賊討伐の軍事費の予算化をしております。
一方で、後の世の五人組に似た隣保・徴税組織の「保」も活用します。「保」は五家で一単位をなし、保長に「保」内の人々の移動を掌握させ、異常のことがあれば報告させることもしました。また、人の多く集まる場所には見回りを置き、海賊を捕獲した者には褒美を出すこともしました。
記録には、海賊がどのような形態の海賊であったか明らかにされていません。
組織化され専業化したもの、漁業の片手間に機会があれば海賊に早変わりするもの、後の世の和冦の様に企業化されたものと、色々あったに違いありません。
貞観十一年(869)、讃岐で二組の夫婦からなる海賊が捕縛されました。彼らは舟を住処として漁業を営む傍ら、食に窮すれば沖を往く舟を掠め、海岸の村から盗むのを、常套手段としていたのでありましょう。男の方は処分されましたが、女房たちはただ夫に従っていたとして放免されました。
相手が零細な海賊であっても、捕縛に関わった者は報賞を受け、国司は中央へ報告ができて面子が立ったのです。
真如法親王が唐への旅立ちのとき、馬渡島で仮泊を試みた際に、多くの漁舟の群れ集まるのを見て危険を感じ、神集島へ移動しておりますが、漁民たちが海賊に急変することがあるのは、海上を往来する者の常識であり、当然とるべき行動であったのであります。
貫之たちの海賊への怯えは、どのようなところから来ていたのでしょう。
ただ財物を強奪されるだけで、命に別状ないことが判っていれば、それほどのことはなかったのかも知れません。
「宇治拾遺物語 巻十の十」に、『海賊発心出家のこと』と言うのがあります。
『今は昔、摂津の国に、いみじく老たる入道の、おこなひうちしてありけるが、人の「海賊にあひたり」といふ物語りするついでにいふやう』で始まります。
昔、摂津の国に、仏道修行に励む年老いた僧がいたが、人が「海賊にあった」と言うのを聞いて、「若い頃のわしは、着るものも、食い物も有り余る程あって、なに不自由なく、毎日海に浮かんで過ごしていて、淡路の六郎追捕使などと嘯いていたものだ。その頃のこと、安芸の島で、二十五六歳のいかにも品の良い男が宰領する舟が、近くに漕ぎ寄ってきた。若い男が二三見えて、女もいるに違いなかった。
簾の隙間から覗いてみると、多くの荷物が積まれているのに、頼りがいのありそうな者は見当たらない。この舟がわしらの舟に付き従って、わしらが下れば下り、島に寄れば島に寄り、泊まれば泊りするところを見ると、こちらの舟の正体を疑っても見ぬ様子であった。
何とも怪しい奴らではある。
何故について来るのか問うてみた。
『周防の国から、急を要することがあって京に上るのですが、頼りになる人を載せていないので、恐ろしく、あなたの舟を頼みにしているのです』という。
なんと言う愚か者か。
こちらは周防に向かおうとしているので、京に向かう舟について行けと言うと
『明日になれば、そのようにもしましょうが、今夜はそちらについて参ります』と言い、人目のない島陰にともに泊まったわけだ。
仲間たちは、潮時だ。荷物を全部戴いてしまえ、と彼の舟に乗り込むと、彼らはただ呆然として為すところを知らず。
手を合わせ、泣いて命乞いをする男も女も、全て海に放り込んでしまった」
無惨な話ですが、古今これが海賊の属性でありまして、近年起こった南シナ海や東南アジアに出没した海賊たちも、まったく同じ行為をしているのです。
貫之たちの怯えが如何なるものか、御理解頂けましょう。
元海賊の入道が、仲間に「狂ったか」と言われながら、どうして俄かに道心を起こして出家したのかについて、興味があれば宇治拾遺物語を読んで下さい。