"韋駄天" の三人の人質が無事解放されて、ホッとしております。
最近の東南アジアの海賊騒動は、今までとは異質の展開を見せております。
マラッカ海峡沿岸国は勿論、海峡利用国の政府には本気で治安回復に努めて貰わなければなりません。小渕総理の提唱により、2000 年にこうした関係諸国の会議が開かれ、国際的な協調を旨とする協定とともに、それは見事なアクション・プランも採択されました。あの様な立派な計画があっても、直接被害を受ける船員たちが取れる実際的な防衛策は、殆どないのです。そして国際協定はあっても、実行力を持たぬ国がことさらに国家主権を言い立てることがあって、賊船の追跡を国境線を越えて出来ないという問題が残されたままになっています。
海洋国家シンガポールの警備担当者などは、地団駄踏んで悔しがるのです。
日本にあっての海賊事件に関する報道は、日本人が関わった時にしかなされて来ませんませんが、今、日本の国際海上輸送、つまり日本経済を支えている船と船員の 90% 以上は、実質的に日本の船会社や商社の支配下にある外国籍の船であり、外国人船員なのです。法改正により、日本国籍の船でも国際免許を持った安価な外国人を、船舶職員として配乗できる様になりましたから、船員と言う職業に魅力のないことに加えて少子化の影響もあって、日本人の外航船船員は絶滅種です。
従って、日本人船員が海賊行為の被害者になるケースは少なくなるでしょうから、海運がさらされている危険が報道される機会も少なくなり、一般の日本国民は、実情を知らぬまま窮地に追い込まれる危険があります。
実は、 2004年の一年間に国際海事機構に報告された海賊事件は、全世界で 325 件であります。その内マラッカ海峡西口で起きたものが37件、東口で 8 件、そして更にインドネシア東部のフロレス海周辺では 98 件にもなっていたのですが、普通の日本人が手にする国内のメディアでは、おそらく一件も報道されなかったのではないでしょうか。
実際には、顧客対策や何やかやで報告されていない事件は、相当な数に上るのではないかと言われております。
海運は日本の生命維持装置でありますが、運航は外国人に頼っているわけです。 昨今、中・韓の両政府が、「狂ったか」としか思えぬ行動をとっています。一旦緩急あれば、彼ら外国人船員が命懸けで仕事をしてくれるかどうか、その時になってみないと判りません。安全保障は軍事を論ずるだけでは、片手落ちなのです。
ともあれ、これからの海賊事件の報道には、日本の船会社の為、ひいては日本人の為に働いている外国人船員に起こった事件ついても、日本人と同等の配慮があって然るべき、と思っているのです。

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さて、ヴァイキングたちは、キールを具えることによって堪航性の高まった新型のボートで、初めは恐るおそる、後には剛胆ぶりを発揮して行動範囲を広げ、知識と技能を蓄積して次世代に引き継ぎ、練度の高い航海者の集団となりました。
400年頃からずっと続いて来た寒冷な気候も、八世紀末には中世の温暖期への移行の兆しが彼方此方にあらわれ、夏の海は全般的に穏やかになる傾向を見せ、修業時代の締めくくり期のヴァイキングたちの活動を後押しすることになります。
春、彼らは東寄りの卓越風に乗って外征の途につき、秋口の西風にのって帰国する術を身につけたのです。
彼らの活動はその特徴によって、幾つかの時期に分けることが出来ます。
その活動の初めから860年代までは、小集団によって散発的に行われるヒット・エンド・ランの掠奪が専らでありましたが、それ以降は組織化が進んで軍事力としても侮りがたい勢力となりまして、掠奪や襲撃をちらつかせ、あるいは実際に掠奪と襲撃をしておいて、撤退することを条件に更なる貢納をさせる、と言う旨いやり方を常套戦術にし、同時に植民志向をも明確にしております。
ヴァイキングの大陸での活動は、相続問題で混乱するフランクのカロリング朝滅亡の引き金となり、この間の騒動でノルマンディがヴァイキングにもぎ取られ、そして、1013年から後の約半世紀の間は、デーン人によるイングランドの政治的征服の時期となります。
ヴァイキングの活動の記録は、専ら襲われた側の記録によるわけでありまして、ブリテン島とアイルランドでの事例の大方は「アングロサクソン年代記」によりますし、大陸側については、各地の修道院や聖職者の記録によることになります。
襲われる側の記録の通例として、被害の記述に誇張があるかも知れぬと言うことは、念頭に置いておかねばなりません。
793年、キリスト教徒の聖地リンデスファーン島の修道院が襲われ、翌794年には、ビード上人ゆかりのジャローの修道院が襲われました。
795年には、アイルランドに姿を現し、アイルランドとスコットランドの双方を荒らしました。
この後も、あの聖コルンバのイオナ島の様に、辺境の地を選んで建てられた全く無防備な修道院が次々に狙い撃ちされております。このイオナ島の場合で言いますと、寄進され蓄積されていた財宝が膨大で、一度では運びきれなかったのでしょうか、802年の劫略の後、805年に二度目の掠奪を受けております。
無防備な修道院を掠奪して、ヴァイキングの社会で最も貴重な威信財を、山ほど獲得して帰国したヴァイキングたちは、戦果とともに沿岸警備の手薄なことなどを吹聴したに違いなく、噂は忽ちフィヨルドからフィヨルドに伝わりました。
資力のあるものは船を仕立てて自ら指揮者となって部下を集め、遺産の相続に与れない余の者たちは、見込みのありそうな良きリーダーを捜し求めて、勇躍して掠奪行に加わりました。
交易を含めて、とにかくヴァイキング行動に参画したことがなければ、男は人がましい顔が出来ない社会であったのです。