「遠の御門(とおのみかど)」と呼ばれるこの当時の太宰府は、中央政府そのままのミニチュア版でありまして、西海道の九国と対馬・壱岐・種子島の三島を支配し、軍事拠点であり、同時に外交と貿易の唯一の窓口となっておりました。
渤海からの使節は、博多に回航するために大変な苦労を強いられていた様です。
新羅が乱れて商人たちが盛んにやって来る様になると、これを処理しなければならない太宰府の官人達の間では、律令の建て前と本音の間の折り合いを付けなければならず、その取り扱いを巡って議論が起こり、中央にお伺いを立てたのでしょう。
天長八年(831)九月の太政官通達に曰く、『暗愚な人民は国内に結構な品物があるのに、これを蔑んで舶来品を買い漁り、殆どが破産状態になってしまう。商人が来航したら、商品の内最上の品物を選んで都に送り、都の人士に不適当な残りの物は、現地で妥当な価格で交易することを許す』
律令の関所と市場に関する規則、関市令(げんしりょう)にあっては、官が公的な交易をする前に、蕃夷と私的な交易をすることを禁じており、これに違反して得た交易品は没収すると規定されております。
先きの通達は、宮中・貴族・大寺院の舶来品への渇望を曝け出しておりまして、この時を境に、貿易は大幅に太宰府の官人の裁量に任されることになりました。
その結果、密貿易の監視人である筈の官僚の腐敗が一挙に進み、彼らは賄賂の、はたまた横流しの味を覚えます。
日本側の態度は新羅商人に直ぐに伝わり、交易は官人や有力者と個々の商人の間での、個人的な信頼関係の上に成り立つ様になり、この関係は京にある最終購入者にまで繋がっていて、在京の貴族達は、現場の担当者というか代理人達に、希望する品物や数量とその対価を提示して、購入を依頼します。
来航する商人たちにとっても、必ず捌ける商品が多くなれば効率も良く、願ったり叶ったりと言うわけです。対価は、その初期にあっては主として日本産の高品質の真綿や水銀、少量の砂金などでありましたが、次第に砂金の占める割合が増えて行きます。
丁度この頃、「張保皐または張宝高」という一代の風雲児がこの海域に現われて、日・唐・羅の間の中継貿易を一手に取り仕切り、はたまた日本と新羅の政界に一陣の旋風を巻き起こして去って行きました。
張保皐は、身分制度の厳しい新羅にあって、百済人の血をひき名乗る程の者では無かった様ですが、並の人物では無かったに違いなく、九世紀の初めの頃に唐に渡り、現在の江蘇省で軍人となって頭角を現し、かなり出世したらしいのです。
821年、軍縮のあおりを受けて失業しましたが、軍籍にある間に豊富な人脈を開拓していたのでしょう、824年には貿易を目的に博多に来ております。
その昔新羅は、日本と百済の連合軍を、唐と連合して挟み撃ちにして、南部朝鮮半島統一の端緒掴みましたが、その際、唐に対する絶対服従と鎖国を担保にして、唐の派兵を引き出した経緯があります。以来新羅の政治経済は全て唐制に倣って、自給自足の原則の上に成り立っておりました。
従って飢饉の為に、税収の基である人民が大量に国外に流出し、海賊・草賊の活動が盛んになったことで、為政者達は国政の基盤が崩れる危機を感じていました。
日・唐・羅間の貿易の利益独占を目指す張保皐は、興徳王に海防政策を売り込んで成功しました。宮廷は張に現代なら一個師団に相当する程の兵と、全羅南道の南端で済州海峡に面した海上交通の要衝である小島・莞島(わんど)を基地として与え、清海鎮の名の下で海上交通の統制をさせることにしました。
張保皐は、唐や新羅の船の航行安全を保障して、いわゆる警護料を徴収すると同時に、配下の兵や民を使って、唐に散在した新羅人たちの居留地「新羅坊」、そして自身が山東半島赤山浦に建立した赤山院と、新羅・日本を結んで貿易活動を大々的に展開して、莫大な利益を上げて力をつけました。
新羅の衰退とともに、彼の勢力の及ぶ所は半ば独立した海上国家の様相を呈し、承和七年(840)、張は使いの者に貢ぎ物を持たせ、国交を求めて太宰府に派遣して来る程になっております。この時、日本側は「人臣に境外の交なし(臣下に外交権は無い)」という原則を曲げるわけには行かず、太宰府から追い返しておりますが、商品の方は欲しかったようで、使者には滞在費を支給し、持って来た商品は民間で交易することを許可しました。
830年代の末、新羅の王族の間では王位を巡っての争いが絶えず、張は神武王と言う王に肩入れして纂奪者を討ちました。神武王の跡を継いだ文聖王には、張の先王への忠誠に対する見返りの意味と、その財力と武力を味方につけておく為であったのか、或いは張自身が王の外戚に成ろうとしたのか、兎に角、張の娘を妃に入れる意志があって、話が具体的になって来た時に、身分の問題が起こり破談になりました。 宮廷では、百済臭い「海島人」は、別格であったらしいのです。
841年、この取扱いに怒った張は叛乱を起こしましたが、宮廷が送り込んだ刺客にだまし討ちにあって、あっさり殺されてしまいました。
清海鎮はこの後も暫くは維持されましたが、鎮人は帰農したり海賊商人になったりました。
張保皐が寄進した赤山院にあって、慈覚大師・円仁が唐で遍歴中に、手厚い保護を受けておりますが、その時張は既にこの世になく、二人は会えず終いになっております。