kitombo.com | 海賊の話 | 2005年4月4日 
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海賊の話
「ヴァイキング その9」

裏小路 悠閑
4月4日

 ヴァイキングが海外遠征に乗り出したこの頃、フランク王国はカール大帝 (在位 768~814) の治下にあって最大の版図を誇っております。
 カールは教皇レオ三世を窮地から救い出し、教皇領を寄進し保護を与えましたから、レオ三世はこれを徳としております。また、彼はノーサンブリアからアルクインなど学識の高い聖職者を招き、ローマ時代の古典文化の復興に力を尽くしました。いわゆるカロリング・ルネッサンスと言われるものです。
 教会組織を整備し経済基盤を与えてキリスト教を治世の柱とし、これにゲルマン的精神文化とローマの古典文化を組み入れて、後の世にヨーロッパと呼ばれる地域の大部分に歴史的発展の枠組みを造り上げ、800 年、ローマのサンピエトロ寺院での戴冠によって皇帝となり、ビザンチン帝国から完全に離脱して、西ローマ帝国の復活とまで言われる様になりました。
 後にイングランドの覇王となる、あのエグバート( 在位 802~839 )は、この頃に帝国に亡命して来ていて、カール大帝の庇護をうけております。エグバートはここで多くのことを学んだに違いなく、その成果は、後にヴァイキングと戦って勝ち、かつ心服させて大王と呼ばれることになる、アルフレッド ( 在位 871~899 )に引き継がれている様に見えるのです。
 カール大帝の事績を讃える逸話は、私でも一つ二つ知っている位ですから、無数にあると言ってもよいのではないでしょうか。
 その治世の治安の良さを讃える話もその一つですが、エルベ川からビスケー湾岸のアキテーヌに至る、長い海岸線にまでは手が回らなかったのか、地方豪族に任せっきりで関心がなかったのか、さすがの大帝も海防政策には手落ちがあったようで、798/799年には既に、ヴァイキングたちはフランクの本土の掠奪に手を染めていて、帝国の豊かさを知り、虎視眈々と侵寇の機会を窺っております。

 当時のスカンディナヴィア人に、国民とか国家の意識があったとしても希薄でしたから、見込みのありそうな首領の下には雑多な部族の出身者が集まり、デーン人の手下としてノルウェー人が働き、また、その逆もあったわけです。
 ただ、大雑把に言えば、ノルウェーからのヴァイキングは、主にシェトランド諸島、オークニー諸島を足場にしてスコットランドからアイリッシュ海に入り、マン島に入植してここを拠点にして、更に南に東に展開します。
 デンマークを発したヴァイキングは、主にイングランド東部とイギリス海峡に吸い込まれて行き、フランク王国の沿岸を荒らし、かつ河川を遡上して内陸の都市を劫略します。

 さて、ヴァイキングを迎え撃つ側のサクソン王国の軍制や、軍事力はどの様なものであったのでしょうか。
 サクソンの七王国が成立した頃までの古い時代の軍制については、専門家の間でも意見が割れている様に見受けられます。
 この島に乗込んで来て居座った頃のアングロ・サクソン・ジュートのゲルマンの社会は、後の世のヴァイキングたちと殆ど変わらぬ文化や、宗教と社会制度を持っておりましてまして、例の gift-based economy の社会でありました。
 王と言われるものたちの武力は、王の血筋に連なるものや貴族たちからなる、わずかな数の扈従が中心でありました。王から贈られる品物に拠って王/扈従間の臣従関係は、常に確認され再確認されます。
 ブリタニアの征服が進みますと、王からの贈り物に土地が加わりました。土地の下付は格別な名誉であり、そこには当然、それに見合うだけの武力を提供するなどの反対給付が期待されているのです。ただ王と扈従との間の貸借関係は常に見直され更新されるのです。土地を下付された者たちの精勤度が不十分であると王が判断すれば、いつでも取り消すことが出来ましたから、非常に不安定な権益です。
 彼らがキリスト教に帰依して、信仰心を表すために盛んに修道院や教会堂を建てる様になると状況が変わってきます。これらの建造物自体のための土地の外に、教会維持の経済基盤として耕作地も寄進したわけです。しかし、土地は兵力の基盤ですから初期にあっては、父祖伝来の原則は守られていて、土地の使用権は寄進した王の一代に限られておりましたから、完全に手放したわけではありません。
 王たちの在位期間は一般に短い上に、紛争や流行病のため、突然の死に見舞われることは日常の出来事である時代です。教会は安定した経済基盤を必要としましたから、ローマ時代の制度の導入を強く望み、そして獲得しました。
 キリスト教徒になったばかりの初期のサクソン王たちは、寄進は惜しまなかったのですが、神から反対給付として下されるものは、かつて聞いたこともない魂の救済と来世の永遠の栄光でありました。それを獲得するために教会を通じて王たちが神に差し出すものには限度はないのです。王たちは聖職者のほのめかしをよく理解して、教会には土地の恒久的な所有権のみならず、軍役や税や賦役の免除の特権を与えました。こうして彼らは「救われて天国に入る」保証を反対給付として受け取り、帳尻があったのです。
 王たちの教会への配慮は、不安定な立場に悩む扈従の者たちの間に不満の種を植え付けました。目端の利く者は、自分の土地に修道院を建てて自分が修道院長に納まり返って特権を行使する様になりましたが、後には恒久的な土地の下付は当たり前のことになり、権利者は土地を守る為に戦争も辞さぬことになります。

 王が軍を召集した時には、貴族や扈従の者たちは各自の使用人を引き連れて参集しなければならないのですが、特権を付与された教会の土地に住む者や、土地持ちの有力者たちが増えて、王たちは危機感を募らせたと思います。
 実際に軍役忌避者たちがあったに相違なく、ウェセックスの王イネ (688~726) が七世紀末に公布した法典は、『土地を付与された貴族が軍役を怠った場合、120 シリングの罰金を科した上に土地を没収、土地を持たぬ貴族の場合は罰金 60 シリング、自由農民は罰金 30 シリング』と規定しております。
 そして一般には、八世紀までのサクソン王国では、最強を誇る国王でも、召集できた兵員数は精々百とか二百であったろうと推測されております。こうした規模の小さな軍勢でも召集に時間が掛かるため、緊急の事態には対応できぬ上に、農民たちを長時日拘束できないと言うものでありました。
 軍役に出る農民たちには、国や同胞を守ると言った意識はなく、ただ主人に従うのが社会の掟であったから参戦するだけの話です。
 教会に対する制度に便乗して土地を我が物にした勢力者が増えた結果、ヴァイキングの大侵寇が起こった時、早々にヴァイキングと取引して財産の保全をする有力者が続出し、サクソン王国が次々と滅亡する原因の一つとなりました。
 900年、気がついてみればオーディンを等しく始祖とするサクソン王国の王統は、ウェセックスの王アルフレッドの系統を残して 殆ど全滅しておりました。

 見方によっては、ウェセックスの王統によるイングランド統一の為に、ヴァイキングたちが地均しをしてくれた様なものですが、これは後の話となります。

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