kitombo.com | 海賊の話 | 2004年4月5日 
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海賊の話
「海賊の系譜 その4」

裏小路 悠閑
4月5日

 九世紀の一時期、黄海と東シナ海での海上活動は、張保皐に代表される百済系新羅人の海民の独壇場の観があります。
 円仁が参加し、小野篁が病を言い立てて行かなかった承和度(839)の遣唐使団は、その船を四隻とも唐の海岸で失った為、帰路は張保皐の支配下にあると思しき新羅船を九隻雇い入れて、何はともあれ全船帰国を果たしました。
 この時代の日本の遣唐使船団の惨状と、新羅人海上活動の有り様を比べれば、その技術の差は歴然としております。一つには彼らが無闇に船の大型化をしなかったことが、大きな差になって現れたのではないかと思います。
 張保皐が除かれ統制が取れなくなると、交易権は次第にシナ人の手に移り始めまして、日本人の言う「唐人(江戸時代の終わりまでずっと唐人です)」が現れる様になります。
 受け入れ側の日本人の間に、新羅と唐の二つの異なる取り引き系列が出来上がって確執が起こり、唐に加担する側に軍配が挙がって、排除された新羅商人たちは行き場を失い、九世紀後半からは海賊商人として日本の沿岸に現れ、活動をすることになります。

 円仁は入唐の際に、日本の高官から張保皐に宛てた書状を託されておりますが、唐の沿岸で難破して命からがら退船する時に、失ってしまったらしいのです。
 この高官は、一体誰だったのでしょうか。

 承和九年(842)正月、新羅からの使いが太宰府にやって来て、「張保皐が死んで叛乱は鎮圧されたが、その残党が日本に逃れて来るかも知れないので、その場合には逮捕して引き渡して欲しいこと。二つには、張保皐の手の者が、先年日本に持って来た品物は対価が支払われておらず、新羅の財産であるから返してもらいたい」と述べ立てました。

 太宰府からの報告は朝議に付され、賊徒の逮捕引き渡し要求は、処罰される事が確実な張保皐の元部下を、言われるままに実行する謂れは無いとして、無視することになりましたが、財貨の返還要求を調査すると、律令制の建て前からいって見過ごしに出来ない事実が浮かび上がって来ました。
 問題の財貨は、前の筑前守・文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)が、張保皐の存命中に唐物(からもの)を購入しようと注文を出した際に、前払いとしてかなりの財物を先渡しておりましたが、張が殺されて約束の品物が手に入らなくなり、別口の交易で張の部下が交易に持って来た品物を、代わりに差し押さえた物であると判明しました。
 外蕃の者が、本朝の品物が欲しくてやって来る時は、天朝がその行為を憐れんで交易をさせてやる、と言うのが律令の正しいあり方で、臣民が対価を先払いして、外蕃の者を交易に誘い込む等とは、以ての外の行為であったのです。
 差し押さえてあった品物は、厳正に調査の上返却せよとの命令が下され、この件はこれで幕引きとなると見て、宮田麻呂は「やれやれ」と思ったかも知れません。

 宮田麻呂の行為は、太宰府の存在を無視した密貿易ですが、中央と現地の間には、申し合せや馴れ合いがあったでしょうし、取り締まり官庁である太宰府にしたところで、密貿易を見てみぬ振りをするだけでなく、恐らくそこから大きな利益を引き出していたのではないでしょうか。
 偶々、宮田麻呂の行為は露顕しましたが、筑前・肥前・肥後、それに壱岐・対馬・五島などは、古来中央政府の威令の及び難い辺境の地であり、地形的にも密貿易を行うには打ってつけの場所でありまして、大小様々な「宮田麻呂」が活動していて当然であります。
 この地方の海民たちは、新羅やシナの辺境に住む者達との交流を通じて、移動の自由を持つ辺境人に共通するメンタリティを持つようになって、どちら側の国家にしても迷惑千万なことですが、共同して活動する様になって行きます。

 新羅の使者が来た翌年(843)、文室宮田麻呂は自身の従者によって、謀反を企てていると密告され、家宅捜索の結果証拠が出て、本来斬首刑になるところを死一等減じられて伊豆への遠流となりました。宮田麻呂に余計なことを喋られると困る高級貴族たちが、口封じの為にやったことではないでしょうか。
 宮田麻呂には大勢の高級宮廷人が繋がって、良い思いをしていたでしょうし、高価な財貨の京都への輸送には、瀬戸内海の海民が多く関わっていたに違いなく、宮田麻呂が処断されたことによる彼らへの影響も、小さくは無かったと思います。
 宮田麻呂を謀反人と断罪した側には、冤罪であることは初めから判っていたのではないでしょうか、彼の怨念を鎮める必要があって、この後に盛んになる宮中行事・御霊会では、早良親王や伊予親王などとともに慰霊されております。

 日本側に宮田麻呂の謀反に繋がる事件を引き起した張保皐の死は、新羅には更なる混乱を呼び起こし、これを境に、帰化を求める者や交易に名を借りる新羅義人の来航が急増し、両国間の緊張は高まりました。
 危機感を持った太宰府の次官・藤原衛は「交易を口にして来航しても、宮廷への貢ぎ物をせず、ただわが国の諸事情を偵察して帰る新羅人の入国を、今後一切禁じてはどうか」と上奏しました。
 太政官は、徳がどうだとか、仁がああだとか、建て前を並べた挙げ句に、「帰化を求める者については、普通の漂流者と同じく扱い、食糧を与えた上で追放せよ」と命じ、結局これ以降新羅人の帰化は無いことになりました。
 交易の方は、日本側の都合があったのでしょう、唐の商人たちが頻繁にやって来る様になるまで続けられておりまして、円仁とその従者の一行は承和十四年(847)赤山浦の新羅商人たちに頼って帰国しております。

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