kitombo.com | 海賊の話 | 2005年4月11日 
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海賊の話
「ヴァイキング その10 アルフレッド (849~899)」

裏小路 悠閑
4月11日

 839 年に覇王エグバートが没した後、賢人会議と言うか有力者会議と言うか 「witan」 はエセルウルフを王に推戴することを決めました。

 「年代記」の 853 年の記述には、エセルウルフ王は、当時まだ幼児と言っても良い年歯の末っ子アルフレッドをローマへ送り出したとあり、翌 854 年の条では、自分自身の後生を願って領土の十分の一を神に寄進した上で、賑々しくローマに巡礼して一年間滞在したとあります。
 エセルウルフは帰国の途上西フランク王国に留まり、カール禿頭王の娘を王妃に迎えたことになっていて、帰国して二年ほどの内に死んでおります。
 後に立役者となるアルフレッドはローマ滞在中に訃報を受け取りました。
 エセルウルフの死を悲しんだ法王はアルフレッドを「我が子」と呼び、王として聖別したと「年代記」にはありますが、王の選出は賢人会議抜きでは成り立ちませんので、この部分は宗教上の意味合いだけのものか、創作ではないかと疑うのですがどうでしょうか。
 この時期、ヴァイキングたちは船の大型化に着手していて、来寇する集団は次第に膨れ上がり、851年には、テームズ河口のサネット島で、854年にはすぐ隣りのシェピー島で、堂々と越冬するほどの傍若無人ぶりを見せているのです。
 と言うことで、エセルウルフの行動に関する、この一連の記述はどの様に解釈したら良いのでしょう。それほどに時間的・財政的な余裕があったのか、事態の推移が読めなかっただけなのか、あるいは、単に私たちが想像するほど事情は悪くなかった、と言うことなのでしょうか。


 860 年代以降、ヴァイキングの活動は植民志向を色濃くしており、これまでの掠奪一本槍とは違った展開を見せております。
 彼らはこの時期までに、既に三度のパリ遠征を経験していたばかりではなく、ビスケー湾のノアールムーティエ島を乗っ取って活動基地として居座り、ロアール川流域一帯のアキテーヌを劫略し、あるいは、イベリア半島を廻ってセヴィリアに攻撃を仕掛け、サラセン軍から手ひどい反撃を喰らって甚大な損害を被り、這々の体で退却したりして、数々の貴重な経験を積んでおります。
 こうして身に付けた戦争技術をイングランドに持ち込んで来たわけです。
 彼らは上陸すると前進基地として堡塁を造り、イーストアングリアで盛んであった牧場から馬を徴発して機動力も持つことになりました。一方、迎え撃つサクソン諸王国間には協同して防衛に当たる戦術思想がない上に、必要に迫られた時だけ臨時に召集する農民軍 FYRD では、対処できないのは当然の成り行きです。
 弱小なイングランド東部の諸国にあっての軍事力は知れたもので、被害を少なくするために土地や貢物を差し出して安全を買い取った後に、約束を反古にされ、国土を蹂躙されると言ったことが起こっております。
 こうした切迫した事態の下でも内紛に明け暮れるノーサンブリアが先ず潰され、ベルニシアというノーサンブリア王国建国の基となった小国に先祖帰りして、漸く永らえております。

 868 年、ヴァイキングの集団がノッティンガムに冬営したため、マーシアの国王バーレッドは、ウェセックス王に救援を要請しました。ウェセックス王エセルレッドは弟のアルフレッドとともに、軍勢を引き連れてノッティンガムに進軍しましたが、マーシア王が取引をして講和を購ったため、無駄足になりました。
 874 年、ヴァイキングはマーシアに再侵攻してきました。マーシアの国内事情は前回に比べると様変わりしている様に見えます。
 ヴァイキングは、マーシア王の貴族でケオウルフと言う者を抱き込んで、この者にマーシア王国を預け置くと言う形をとります。ケオウルフは人質を差出し、侵攻者の命令には何でも従うと言う誓言をして、土地の保全と身の安全を図りました。 こうした手法による財産の保全は、王権の衰退があった各地で起こったことであろうと推測されます。
 この時、マーシア王バーレッドは完全に統治力を失っていたようで、海に逃れ出てローマに流れ着き、そこで生涯を終えております。
 こうしてマーシア王国もデーン人の支配するところとなり、滅亡しました。

 アルフレッドは多岐にわたる系統の英国の王や女王の中で、ただ一人「大王」と呼ばれる伝説の王ですが、アーサー王などとは異なり、この王にまつわる伝説は真実であります。
 彼は 849 年にエセルウルフの末子の四男として生まれ、多病多感でありましたが、病弱者にまま見られる強くありたいという負けじ魂と、勉学への意欲は豊富に持っておりました。後に彼が残した多くの文化的な業績を見る時、ローマ滞在中には法王の庇護のもとで勉学に励み、多彩な人士に出会い、多くのことを身につけたに違いないと断言できるのです。
 ローマから帰って見ると、ヴァイキング(以下デーン人)が跳梁跋扈していて、若年ながら兄たちに伍して戦陣に立たざるを得ませんでしたが、軍事的指導者としての能力も並ではないところを見せました。
 871 年、他のサクソン王国は事実上全て壊滅していて、ウェセックスだけが王国の体裁を持って残っており、集中的な侵寇を受けることになりました。
 ウェセックス領レディングに侵寇して来たデーン人を、在郷の貴族たちが押し止めている間に、国王エセルレッドはアルフレッドとともに軍勢を整えて戦場に駆けつけたのですが、自由農民の集合に手間取り、報告を受けてからの数日間を空費しております。
 この後には大きな戦闘が九度、小競り合いならば数えきれぬほどあり、一進一退の長く苦しい戦いが続きました。この間に多くの股肱の臣を失った挙げ句に、最後に残っていた兄のエセルレッドも死にました。エセルレッドの死は戦死とは書き残されておりません。状況から見るに、あるいは連戦の末の過労死であったのかも知れません。
 そして、アルフレッドは軍制の欠陥を身に沁みて感じていたのです。

 兄王たちに子供はありましたが、みな幼少で戦時の統治には適さず、賢人会議は 22 才のアルフレッドを王に戴くことに決しました。

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