kitombo.com | 海賊の話 | 2004年4月12日 
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海賊の話
「海賊の系譜 その5」

裏小路 悠閑
4月12日

 円仁は唐での巡礼中も、847年の帰国に際しても、新羅商人たちの大きな援助を受けております。その僅か数年後、空海の姪を母として讃岐に生まれ、後に天台宗寺門派の開祖となる円珍・智証大師は、右大臣藤原良房・良相兄弟の後援を受けて、仁寿三年(853)入唐しますが、往復ともに唐の商船に便乗しておりますし、真如法親王の入唐と彼の従者達の帰国も、すべて唐船に依っており、日本の対外交易の相手が変わったことを窺わせます。
 新羅国内の混乱は日本側の帰化禁止を呼び起こし、新羅商人が日本との交易から排除されることの原因になりましたが、このことは同時に、定期的に唐の商人が来航する様になったことの結果でもあります。やがて、藤原良相や伴大納言といった、大物の対外貿易拡大派貴族を頂点とし、現場の代理人を介して、唐の商人にまで繋がる特定の人間関係の連環が出来上がります。
 貞観時代の初めの頃(860)には、入国手続きを済ませた唐商人たちは、接待所である博多の鴻臚館に収容され、禁足はされますが安全は保証され、食事の提供まで受けて、滞在を許されております。
 太宰府が京に急使を送って唐商人の来航を知らせますと、朝廷は舶来品の鑑定ができる唐物使(からものつかい)に、宮中や貴族からの購入依頼の伝票を持たせて派遣します。これらの依頼の品々を買い上げた後、地元の有力者らが残り物を買うことが出来ました。
 唐商人との貿易の独占と管理を目指した「鴻臚館貿易」の始まりです。  行き場を失った新羅商人たちは、九州地方のみならず北陸山陰にまで足を伸ばし、密貿易に従事することになりました。
 私達は今、貿易だの交易だのと至極簡単に言っておりますが、交易者双方に共通の価値を持つ通貨は存在せず、米・絹・布・糸・綿・紙・鉄・銅などの有用物資が貨幣の役割を担っていた時代の交易は、困難を極めたに違いなく、現代人の想像に絶することの一つです。
 上に挙げた代用通貨は、それが例え国内であっても、地方によってその交換価値に大きな差がありました。中央政府は各物資の間の交換比率を国毎に定める法律(沽価法)を何種類も発布して、流通の効率化を図ろうとしておりますが、効果の程はどうだったのでしょうか。
 例えば、位禄物の交易価格として、単位量の絹を取り上げますと、畿内と関東では三倍くらいの価格差があり、奥羽地方の国であれば五倍以上に跳ね上がります。
 仮に、絹と料紙を交換したいとした場合、絹の価値を米に換算し、料紙の価値を米に換算し、両者を突き合わせて、これこれの長さの絹に対して、料紙何帖となりますが、これで終わったわけではありません。
 当然ながら交換物双方の品質の問題があります。
 平安時代もこの頃になると、政府に納める調庸物でさえも、粗悪な物が多く、絹とは言いながら破れた蜘蛛の巣さながらの物、長さや幅が足りぬ物、草の繊維を織り込んだもの、とにかく知恵の有りたけを絞って誤魔化しているのです。
 まして、外来商人との間の一回限りの取り引きとなれば、互いに信義も何もあったものではありません。行き違いがあれば「だんびら」を振り回すことになります。
 この時期、新羅の海商たちは、誰の保護も期待出来ない立場にあり、自分の身は自分が守らねばならず、彼らが海賊に変身するのにそれ程時間は掛かりません。

 念のため申し上げますが、厳重な品質管理の行き届いた「鴻臚館貿易」は全く別の話でして、双方の納得の上での取り引きがなされ「和市」と呼ばれています。

 かつて太宰府の次官・藤原の衛が危惧した様に、新羅人たちは交易に名を借りて、わが国の様子を窺って多くの情報と知識を蓄積していました。
 貞観十一年(869)夏、二隻の新羅船が博多港に侵入してきて、豊前の国が国税として納める為に集積してあった絹と綿を掠奪する、という事件が起こりました。  この時、海辺の百姓数十人が海賊相手に奮戦したが、有力者の子弟で武技に優れ、頼りになるだろうと選ばれて防衛の任務に就いていた「選士」たちは、惰弱で物の役には立たず、まんまと逃げられたしまったのです。
 朝廷は官物を強奪されたと言うことだけでなく、『国威を損ない辱められた』重大事件と認識し、太宰府官人の譴責処分と、この地方の警備強化策を推進します。
 表面上の警備対象は、勿論新羅海賊でありますが、朝廷は国内に海賊商人たちに便宜を与え加担する勢力があり、こちらの方がむしろ問題だと考えた様です。
 この地方の住民の内には、新羅の海賊や唐の商人と共同して前進基地を形成している者があり、その勢力の抑制の為に、信の置けぬ地元民に代えて、降伏した蝦夷(えみし)を動員して軍備を固めるとともに、越前・能登・越中・越後の防備体制にも手直しを加えております。元々中央政府は地元民への不信感を持っており、壱岐・対馬などは小島であるにも関わらず、防衛の観点から国と同じ扱いとして、中央から派遣した官吏に統治させておりましたが、貞観十八年(874)からは、平戸から五島列島にかけての離島部分を肥前の国から独立させて、値賀島(ちかのしま)という行政区域を新設し、現地人に依る支配を廃止して、中央から島司を派遣しております。

 貞観八年(866)、肥前国の土豪郡司ら数名の者が、新羅人とともに新羅に渡り、新羅人に造兵の技術を教え、協同して対馬を奪う計画しているとの密告がありました。貞観十二年(870)、対馬を奪取する為に、新羅国では太船を建造し、盛んに兵士の訓練していると、新羅の獄を脱出して来た対馬人が報告しました。
 同じ年、太宰府の次官・藤原元利麻呂が新羅王と結託して、天皇を害しようと図ったと疑われております。

 上古以来現在まで、朝鮮半島は日本の安全保障の鍵であり続けて来ました。
 ここでお話している千二百年前の情況は、現代の情況そのままです。
 北朝鮮だけを取り上げても、日本国民の拉致、麻薬や覚醒剤などの密輸、密入出国と不法滞在に工作員の活動、不法送金に偽札の行使、禁制品盗品の密輸出等々は、みな国家の指令でなされた海賊行為に外なりません。そして、日本国内にはこれらの不法行為に対して、陰に日向に様々な形で手を貸す輩が、政官界は勿論、学者言論人をはじめあらゆる場所にゴマンといることも、千二百年前と同じです。
 その崩壊の仕方によっては、その震源地である北朝鮮からのみならず、韓国を経由して武装難民が大挙して来日するかも知れません。
 西ドイツとは異なり、韓国にはショックを吸収する力がないのです。
   

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