シナ大陸の交通手段の地域的特徴を「南船北馬」という言葉で表しますが、日本でもそれに倣って「西船東馬」と言うこともあるようです。
その昔、太宰府をはじめ瀬戸内海沿岸の諸国の津には、官船が備えられていたことは判っておりますが、九世紀に入ると太宰府からの官物の輸送は、民間の船を雇って行われるのが常態となっております。おそらく沿岸諸国も調庸の運京や人の移動には、同様に民船に頼ることになっていたと思われます。
九・十世紀の平安京にどれほどの量の物資が運び込まれたか、確かなことは未だ判っていない様ですが、奈良時代には調庸と公田の賃貸料である地子を合わせると、全国から米に換算して六十万石以上の物が、運び込まれたと推定されております。
平安時代、王臣盛家や大寺院が、大規模な荘園や塩浜と製塩のための山林を持つ様になり、かつ海外貿易が盛んになると、運送・回漕・倉庫業への需要が一気に高まって、売り手市場となり運賃の昂騰を招いたものと思われます
陸上の輸送は、人が担ぐ量は知れたものでコスト的に限りがあり、牛馬や車が主体となります。こうした運送手段を持った地方の富豪や有力者が「馬借」「車力」を、海上輸送なら「舟子」と呼ばれる階層を支配することになります。
馬一頭を借りて米を運ぶとすると、五斗俵三俵が積載限度であり、公定運賃での一日当たりの駄賃は、まぐさ代も含めて玄米換算で七升五合、馬に付き添う人夫には、米二升と塩二勺の食糧を含めた日当が支払われることになっておりました。
都合、駄馬一日当たり一斗程の運賃を支払うことになり、遠距離輸送の運賃は途方もないものになります。
諸国からの運送賃を定めた規則がありました。
官物の輸送や、それに準ずること証明するパスポート・公験を持った者達は、他に先んじて駄馬や車や船の雇い上げをする権利を持っておりましたが、その時の運賃は公権力を振りかざし、規定以上のものは払わずに済ませたかも知れません。
この運賃表によって、土佐から山崎の津までの海上運賃を見てみますと
(基準所要日数は海上輸送で二十五日、陸上輸送なら三十五日)
米一石当たりの運賃は 一斗 + (四合 × 所要日数)
船頭の賃金 二石五斗
舟子の賃金 一石五斗 × 人数
米五十石を二十五日で、舟子四人を使って運んだ場合、運賃総額は十八石五斗に達します。五十石の荷物に対する運賃が、十八石半。大変な高運賃です。
馬借・車力の姿と言えば「東は大津、西は山崎に走り、常に駄賃の多少を論じ、車力の不足を言い立てて・・・」おりまして、舟運以上に効率がよくありません。
官物以外の荘園や塩浜からの輸送は、輸送業者との交渉次第でありましたでしょうし、米以外の品物の輸送ともなれば、その基準運賃がない為交渉は大変であったのでは、と思います
九世紀の半ば頃までの瀬戸内海の舟運の方は、地方毎に近傍海域の事情に通じた者たちが、棲み分けをして何程かの安定を得ていたのではないでしょうか、年表の上でも瀬戸内海は静かなのです。
貞観八年(866)閏三月、応天門が怪火で焼失しました。
伴善男・大納言はこの事件を政争に利用しようとしましたが、伴大納言や紀夏井のような文人派の政治家が、天皇と結びあうことを警戒する太政大臣・藤原良房の一統によって、逆に放火犯と断罪され、死一等減じられて遠流されております。
この事件に無関係の紀夏井は、肥後守に在任中でありましたが、異母弟の紀豊城が大納言の従者で事件に関わっていた為、側杖を喰って土佐に流されました。
唐の帝に拝謁を賜った時、その席次を争ったあの大伴古麻呂は、伴大納言の曾祖父に当たります。とにかく能吏であったのでしょう、トントン拍子に出世を重ね、美作守に続いて、854年から857年までは讃岐守に任じられております。
讃岐には代理人を送り込んで赴任しておりませんが、土地の豪族佐伯氏とのつながりが出来て、讃岐国内に墾田や塩浜を獲得しておりますし、後には海外貿易にも関わっておりますから、舟運組織にも大きな影響力を持っていたと見てよいのではないでしょうか。
紀夏井も文人政治家であり、かつ良吏・清官の見本で、青年期の道真にとっては師のような存在でありました。夏井は善男の後を引き継いで讃岐の国守となり、善政を布きましたから、任期明けに百姓たちは夏井の留任を願って運動して、二年間の任期延長を得ています。
紀氏も大伴氏と同様に、大化以前から西国、特に瀬戸内海沿岸に勢力基盤を置いていましたから、この人も当然のように舟運には気配りをしていたと思います。
大伴・紀の両氏の中央政界での没落は、両氏の下で組織されていた海民の集団組織に混乱を呼んだのでしょう、新羅海賊の跳梁跋扈と時期を同じくして、応天門の変の後に、瀬戸内海の海賊騒動が盛んになっております。