大鏡には、「純友(すみとも)は、将門同心に語らひて、おそろしきこと企てたる者なり。将門は、『帝を討ちとりたてまつらむ』といひ、純友は『関白にならむ』と、同じく心をあはせて、この世界に我とまつりごとをし、君となりてすぎむ、といふことを契りあひて、将門は東国にいくさをととのへ、・・・・・・
純友は西国の海に、大筏を数知れず集め浮かべて、土を盛り木を植え沢山の田を作って住みつき、およそいい加減な軍勢の討っ手には、ビクともするものではありませんでした。」とあります。
また、ある出版社の高校の歴史教科書「日本史B」には、武士の進出の項で:−
『藤原純友の乱・前伊予国司であった藤原純友は、承平四年(934)に任期が切れても京に帰らず土着し、伊予の日振島を根拠地として海賊を従えて、瀬戸内海を荒し回り、官物を奪取した。940(天慶3)年には、伊予・讃岐の国府を襲撃し、さらに太宰府に侵入した。政府はこの鎮圧に大いに手を焼いたが、追捕使として小野好古を派遣して、941(天慶5)年にようやく討滅した。』と解説しております。
瀬戸内海で起こった、古代最大の組織化された海賊騒動を、これだけで済ますわけには行きません。また、この純友の乱に先立って、その前哨戦とでも言うべき「承平南海賊」事件と言うのがありまして、承平元年(931)から同六年までの六カ年に亘って世を騒がしており、この騒動が純友の乱に繋がって行きますので、先ずはそのことから始めることに致します。
律令制の矛盾がまだそれほど露になっていなかった八世紀まで、日本では元旦の朝賀の儀には文武百官を召集し、列席した新羅使、渤海使、蝦夷に服属関係を確認させるため、儀仗兵の堵列と行進を行って威力を見せつけておりました。
と言うわけで、今日の近衛兵に当たる衛府の舎人が大量に必要で、その多くは瀬戸内海沿岸の諸国の郡司を出す程の階層や富裕層から採用され、彼らは免税特権を付与され、在京勤務中は衛府から食糧(大粮米)の支給を受けておりました。
九世紀に外交政策の大転換があって、対外的に虚勢を張る必要がなくなると、宮廷儀式はより優雅なものに変貌した結果、衛府は大量の余剰人員を抱え込むことになりました。舎人の多くは在京勤務をせず、国内に留まって官人身分を言い立てて国衙の支配に服さず、免税特権を行使しておりました。
一方で中央政府は地方の事は受領まかせにしており、定められた租税を完納しさえすれば、後は受領が私腹を肥やす為に権柄づくで強引な税や労役を賦課しても、それが罷り通っておりましたから、各地で紛争や騒動が頻発しております。
本来、新たに開かれた田地は一定期間を経ると公地となって課税されますが、受領達の苛斂誅求を逃れる為、墾田経営者たちは王臣家や有力貴族・神社仏閣に、田地を寄進した形をとって年貢を差出して庇護を受け、用役権を保証して貰って国税を免れて生活の安定を図りました。
この様にして国土の半分或いはそれ以上が、だれかの荘園となって課税できない土地となっておりましたから、九世紀の後半には国家財政は破綻の淵にありました。
財政を立て直す為に、菅原道真や藤原時平が国政改革を行いまして、荘園の資格審査を実施し、誤魔化し放題の戸籍による人身課税から、隠し様のない耕作地への課税に変わったのですが、在郷の衛府舎人たちは国衙の徴税使が来ると大粮米の取得権を盾にとり、納税を拒否するばかりでなく、徒党を組んで暴力沙汰を起こすこともしばしばでした。
一旦出来上がった組織の解体や制度の改革には、既得権が絡んでなかなか思う様に行かないのは、今も昔も変わりない様です。
徴税の矢面に立つ受領には衛府舎人の解雇権はなく、放置すれば国家財政の建て直しに齟齬を生じます。延喜九年(909)になって中央政府はようやく大量解雇に乗り出し、諸国に在住する舎人の調査報告をさせましたが、この政策に対して在郷舎人たちは国府に集まり、受領を吊るし上げ暴力を振るい抵抗しました。
延喜十四年(914)、遂に受領に解雇権が与えられ、承平三年(933)には騒乱を起こす舎人に対しての追捕権が付与されました。
衛府舎人の肩書きを剥奪された者達が、各地で受領との対立を深め、徒党を組んで大粮米徴収を口実にして官倉や運京船を襲って米帛を奪い始めました。これが「承平南海賊」の実体であった様で、承平元年に太政官は南海道(紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐)を中心に海賊が活動を再開したとの報告を受けております。
翌承平二年には備前の国からも海賊の報告があり、承平四年末に伊予の国喜多郡の官庫から米三千石が掠奪されたとの記録があります。
紀貫之は承平五年の正月土佐の国から帰京の途にあり、阿波国の沿岸で海賊の噂に怯えております。
賊の総数は二千五百人を超え、三十余りの集団に分れていて、それぞれが勝手な思惑で動いており、鎮圧する側にしてみれば厄介なことであったでしょう。
「南海道の海上に、賊船が千艘も浮かんで官物を奪い、人々を殺害しているので、海上交通は途絶えてしまった」「海賊は居所を定めず、広い海原を漂い乍ら襲撃の機会をを窺い、追えば鳥の様にちりぢりに逃げ、放っておけばからすの様に集まって来る」と言った情況なのです。
承平二年から毎年の様に、海賊追討、海賊平定の祈願、追捕使の派遣の決定などの記事が見え、一生懸命になっている様子は窺えますが、海賊どもが具体的にどのような活動をしていたのか、上にお話した事例以外の事は殆どわかっておりません。
瀬戸内海の交通が途絶したといいながら、鎮圧する側の動きも、この時は未だ何かのんびりした感じがいたします。
律令国家型の権力の衰退に伴い、国守は行政長官としての性格が薄れて、その名も受領となって徴税吏に外ならず、治安維持に関しては無力となっておりました。
「承平南海賊」鎮圧のため、中央政府は追捕使・追捕海賊使という臨時官を創設して、弱体化した地方の警察軍の能力を補強することになりました。